陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(24)7珊野・山砲、クルップとの対決(1)

□はじめに

 日清戦争が7珊野山砲のデヴューになりました。1894(明治27)年5月、朝鮮に東学党の乱が起きます。これによって日清両国の戦争が勃発します。

 わが国の準備状況と清国の体制を比べてみましょう。まず、わが国の戦時編制はどうなっていたかです。1893年に改正された編制によれば、陸軍は現役・予備役・後備役の人員で、野戦隊・守備隊・補充隊、それに必要になったら国民軍を編成するとあります。

 野戦1個師団は歩兵12個大隊(近衛だけは8大隊)・騎兵2個中隊・砲兵6個中隊(野砲4個、山砲2個、近衛だけは野砲4個中隊)・工兵2個中隊(近衛のみ1個中隊)から成っていました。これに独立して作戦行動ができる諸機関や輜重をつけました。

 人員は将校以下1万8492人(近衛は1万2095人)、馬が5633頭(前同4211頭)、戦闘部隊人員は歩兵の上等兵以下9600人(前同5760人)、騎兵同じく300人、野砲24門、山砲12門でした。そこで野戦7個師団全体で将校以下12万3047人、馬3万8009頭です。いくつかの師団をあわせて軍を編成しました。軍には野戦電信隊、軍兵站部をつけます。

 守備隊は、後備諸隊・屯田兵団・要塞砲兵隊・対馬警備隊から成りました。こうして日本軍は諸部隊を動員編成し、総員22万580人、馬4万7221頭、野砲294門を整備する体制をとっていたわけです。

▼清軍の兵站システム

 清国軍の主力は「勇軍(ゆうぐん)」でした。志願兵集団です。これは、現在のわが自衛隊と同じで、平時からいつでも出戦できる建て前になっていました。ただ、兵站をになう「行李(こうり・部隊に同行して補給品を運搬する部隊)」がなかったので、戦時にはこの人員だけを募集することになっていたのです。

 この他に「練軍(れんぐん)」という軍隊もありました。ただし、平時の充足率が低く、戦場に出るには欠員を補充しなければいけませんでした。その上に行李も編成しなければならず、人員の補充なども制度がなかったので損耗に備えての仕組みもありません。

 

 兵站についても組織はあってもひどく複雑なものでした。わが陸軍参謀本部の記録によれば、兵站機関としては支応局・糧台・転運局がありました。支応局は平時から各省に1個が常置されています。もともと清朝は全土を武力で統一した国家で、その常備兵は満洲八旗・蒙古八旗・漢軍八旗、明朝の軍隊だった緑営といわれた正規軍です。だから各省には兵站の拠点が当然ありました。

 省の長官は総督、巡撫(じゅんぶ)といわれます。その管轄下に軍政と民政の経理事務を担当し、各軍の参謀部と交渉して軍隊の給養を行っていたのが支応局でした。戦時になって出戦となると糧食・被服・兵器・弾薬などの支給や人馬の補充も取り扱いました。補給は直接、出戦軍に補給、あるいは糧台、転運局に補給をします。

 糧台は戦時に特設される機関です。軍に隷属して食糧や被服の補給を行ないます。転運局も戦時だけに置かれる組織です。糧台と軍隊、あるいは支応局と軍隊の中間に置かれて兵站の勤務を行ないました。これら兵站機関に勤務する者は主に文官で、士官・下士卒が配属されますが、これら人員は八旗、緑営の軍人でした。

▼わが軍に特設された部隊

 実際に開戦を決意してみると、戦時編制中になかった部隊が必要になりました。1894(明治27)年6月から臨時攻城廠縦列が第5師団弾薬大隊の隷下に増設されます。攻城砲などを配備する必要上、その補給や整備に関する業務を行なうのが攻城廠です。兵站総監の下には第1・第2電線架設支隊がおかれ、南部兵站監の指揮下に臨時南部兵站電信部もおかれました。

また、内地には臨時東京湾守備隊司令官(第1師団長隷下)がおかれ、臨時東京湾守備砲兵隊、臨時下関守備隊司令部(第6師団長隷下)、臨時長崎守備砲兵隊(長崎守備歩兵大隊長隷下)、下関水雷布設部(下関守備隊司令官隷下)などが特設されます。清国海軍による侵攻に備えての配備です。

9月以降になりますと、第1軍所属の予備砲廠、第2軍には臨時攻城廠、兵站電信部が編成されました。ほかに各師管には臨時予備馬廠がおかれ、大本営直轄として臨時測図部ができます。軍馬の不足に対応しての馬廠の設置です。また正確な地図がなかった大陸の戦場、参謀本部の陸地測量部から人を抜きだして測図部をつくりました。

▼後方兵站の仕組み

 戦争には兵站が欠かせません。戦争の話になると勇ましい戦闘が語られるのが中心ですが、最前線に立つ人は意外と少ないのです。そこで面倒な話にもお付き合いください。

 まず、野戦軍には兵站総監が後方勤務の責任者です。兵站事務・運輸通信事務・野戦監督事務・野戦衛生事務と後方勤務は大きく分けられます。兵站総監部には、参謀・運輸通信長官・野戦監督長官・野戦衛生部長や管理部長などの職員がいました。

 運輸通信長官は鉄道・船舶・車馬で行なう運輸、電信・郵便の事務を統括します。野戦監督長官は、野戦軍に関する会計事務を統理しました。監督部と軍吏部(ぐんりぶ)は、のちに経理部に統一されるのが1903(明治36)年のことです。主計総監(中将相当)、主計監(少将同)、1~3等主計正(佐官)、1~3等主計(尉官)となり、下士も1~3等計手になりました。

この時代では、少将相当官の監督長、1~3等監督(佐官)と大尉相当の監督補の監督部と、1~3等軍吏(大尉~少尉)、1等~3等の書記(曹長~伍長)の軍吏部に分かれていました。野戦監督とは何を監督するのか現代からは分かりにくいのですが、のちの経理部将校、会計事務を行なう軍人でした。

野戦衛生長官は野戦軍に関しての衛生事務を統括しました。兵站病院、野戦病院、衛生環境整備、防疫事業などもすべて扱いました。

▼軍兵站部

 軍におかれた兵站部の責任者は軍兵站監です。その下には参謀長、兵站監部、兵站輜重、兵站司令部がありました。兵站監部には憲兵・法官部・監督部・軍医部・兵站電信部があります。

監督部は金櫃部(きんきぶ)、糧餉部(りょうしょうぶ)があり、櫃は「ひつ」とも読み現金などを入れた「はこ」を表しました。餉は「かれひ」であり、旅人や働きに出ている人への弁当、あるいは兵糧の意味です。出納業務を行い、糧食を扱うことがよく分かります。

兵站輜重の編制は多様でした。

第1軍では野戦砲廠が2個、野戦工兵廠2、砲廠監視隊2、輜重監視隊4、衛生予備員2、衛生予備廠2、患者輸送部3、兵站糧食縦列2でした。糧食縦列というのは中隊規模の糧食輸送を専門とする部隊です。

第2軍は野戦兵器廠2、野戦工兵廠2、砲廠監視隊2、輜重監視隊7、衛生予備員2、衛生予備廠2、患者輸送部2、兵站糧食縦列4、兵站電信隊1、電信予備員1、電信予備廠1となっていました。砲廠には技術下士などが多くいて自衛戦闘も行なえないので監視隊という護衛部隊がつきました。同じように輜重監視隊も、輜重輸卒が主力になるような軽武装だった輜重隊の護衛でした。輜重兵は戦闘兵科で十分な武装をし、戦闘訓練も受けていましたが輜重輸卒の1割にも満たない人員数です。(つづく)

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古い!─昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震災と自衛隊─自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った─国産小火器の開発と用兵思想』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。