陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(21) 28珊榴弾砲の効果 

□はじめに

 「そこから旅順港は見えるか?」、「見えまあす!」という映画の中の名場面がありました。有名な203高地が占領された後、第3軍司令部と前線の双眼鏡を構えた将校の会話です。

 旅順攻囲戦についてはあまり事実が知られていません。むしろ悲壮な肉弾戦ばかりが伝えられ、そこから第3軍を、ひいては乃木大将をおとしめる議論がされてきました。鉄条網や、壕に守られた「真鉄(まがね)なすベトン(コンクリート)」に無理にも攻めかかった、だから愚かだった、そんな風に語られてきました。

 しかし、なぜ乃木軍は準備もままならないうちに強襲をしかけたのでしょうか。要塞についての正確な情報が少なかったのは乃木司令部のせいではありません。ロシアの日本側諜報への備えが厳重だったからです。堡塁や防備状況について正確な情報が伝わっていなかったことが分かっています。

 第1回の総攻撃では敵の備えが痛いほど分かりました。同じ旅順でも10年前の清国軍が築いた要塞とはまるで異なるものでした。頑丈なベトンで構築され、斜堤(斜面状に築かれた土手)とそれを越えたところの深い壕、しかも側防窖室(そくぼう・こうしつ)に機関銃を備えた構築物、それが堡塁だったのです。

側防窖室とは壕に落ちた敵を側面から狙い撃つ機関銃などを備えた部屋のことでした。あおい輝彦さん主演の映画「二百三高地」ではよく再現されていました。

第3軍にとっては背後からの脅威もなく旅順港の包囲もできています。ゆっくり時間をかけて攻略するのが良いことは誰もが分かっていたことでした。工兵による塹壕をめぐらせ、坑道を掘って地下から敵堡塁を爆破する・・・そうした正攻法を採りたかったのは当然でしょう。しかし、バルチック艦隊の来航を知って焦る海軍、満洲軍からは速やかに北上し会戦に参加することを要求されました。

▼203高地を砲撃する

 203高地は海軍が揚陸した陸戦重砲隊の弾着観測にはぴったりの高地でした。この小高い山(標高203メートル)の争奪戦で、1904(明治37)年11月27日から12月5日までの戦闘で、わが軍の1万4000、ロシア軍5000が戦死しました。

 戦闘は凄惨をきわめて、最後にはロシア軍の逆襲を防ぐために28珊榴弾砲の巨弾が味方の上にも降りました。これについて、三宅氏の論稿『砲兵沿革史』の中で、奈良武次大将は次のように述べています。

 「児玉総参謀長は直ちに師団長(大迫尚敏第7師団長)からは203高地に攻撃前進中、攻城砲兵の発射する大なる弾が近所に落ちて、その破片でわが兵の死傷する者が多い。そこでわが兵が敵の塹壕に近くなったら砲撃を止めるか、射程を伸ばして敵の後方を撃ってもらいたいというが、貴官はどう思うか」と聞かれた。

 「そこでわたしは答えた。わが砲弾が塹壕に命中すると、塹壕の掩蓋(えんがい・上部の屋根のようなもの)木材が敵守備兵といっしょに空中に投げ飛ばされます。すると直ちに後方に隠れていた敵歩兵が銃をさげてその跡に駆け込みます。ロシア兵は実に頑強で勇敢です。ですから砲撃を止めて敵はいなくなったと思って突撃すると、必ず塹壕にいる敵兵から意外な反撃を受けて撃退されてしまいます」

 だからこそ砲兵は射撃を続けたそうです。少々の犠牲を払っても塹壕の占領を専一にして射撃を続けると奈良少佐は言いました。すると児玉総参謀長は何も答えなかったので、奈良は退出し、攻城砲兵は射撃を続けたといいます。

 ところで、長南氏の研究によれば、「そこから旅順港は見えるか」というやり取りはどうやら後世の脚色のようです。というのも、12月2日から4日にかけて第3軍は攻撃準備にかかりますが、2日のことでした。長南氏の『児玉源太郎』(作品社・2019年)によれば、この日、203高地の西南部山頂の一角から「敵艦隊を通視可能」という報告を児玉が耳にしています。すぐに観測将校を派遣したそうです。

 すぐにも撃てと児玉は言ったそうですが、攻城砲兵司令部員奈良少佐は賛成しません。観測将校たちの意見は急いで軍艦を射撃すると反撃を受けてしまう、堅固な観測所を造ってからが良いと考えたのです。

▼海軍陸戦重砲隊

 海軍陸戦重砲隊の装備はアームストロング社製の15センチ、12センチ、8センチの各種口径のものでした。この海軍重砲隊の武勲についてあまり知られていません。

 まず、軍艦「扶桑」から12斤砲を揚陸し、続いて12珊、15珊砲が加わり、8月7日から8000メートルから9000メートルの距離から港内に碇泊するロシア艦に射撃を始めます。ロシア軍はどこから砲弾が飛んで来るのかも分からず、次々と被弾し、被害を受けました。

 重砲隊司令部の隷下には第1砲隊(12珊速射砲6門)の3個中隊、第2砲隊(12斤砲16門)の5個中隊、第3砲隊(12斤砲4門)の1個中隊です。これに工作隊、運弾隊、衛生隊、給与部、通信隊などの附属隊がついていました。指揮官はのちの海軍大将黒井悌次郎(くろい・ていじろう)(当時中佐)です。そうして名簿を見ると伝令将校に津留雄三少尉という名前が見えます。この津留さんは大正時代には大佐になっておられ、いろいろと逸話をもつ「名士」だそうです。

 次回は旅順開城のあとの調査官による港内のロシア艦の被害状況の調査結果をお知らせします。

 

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。