陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(26)日清戦争・旅順要塞陥落

▼旅順口の攻略

 1894(明治27)年11月13日、混成第2旅団は金州城に到着します。大山第2軍司令官は旅順口付近の敵状をつかもうと思います。内地にいる第2師団の戦場到着を必要とするかどうかを決めるためです。混成第2旅団は長谷川好道少将が指揮をとり、歩兵第14聯隊と同24聯隊、それに騎兵第6大隊の1個中隊、野戦砲兵第6聯隊の1個大隊、工兵第6大隊の1個中隊を主力とするものでした。

 13日に知ることができた情報は次の通りです。旅順口の本来の守備兵は約8500名、それに金州や大連湾にいた敗兵その他が約3600名などの合計約1万2000名。うち9000名は実戦経験もない新徴募兵とのことでした。

 そこで軍司令官は第1師団と混成第12旅団だけで攻撃を加えることにしました。それに15日には大連湾に到着する臨時攻城廠を加えれば良いと判断し、第2師団は加えないと決心します。そうして13日のうちに陸海軍協同攻撃計画をまとめて、海軍参謀島村速雄少佐にも内容を伝えました。

それによれば11月21日に攻撃予定、混成旅団と左縦隊は旅順口の北方、および東北方から牽制する。第1師団は水師営の東南凸角に向かって攻撃する。海軍の艦隊は清軍の兵力を海面に向かって注力させる。典型的な軍港を守る要塞への攻撃です。

▼軍隊区分

16日には軍隊区分を発表します。騎兵第1大隊と第6大隊の1個中隊を探索騎兵にあてます。探索騎兵とは、現在の陸自にも師団には偵察戦闘大隊があるように戦闘力もあり、機動力ももつ偵察部隊です。

左翼縦隊は歩兵第14聯隊、騎兵第6大隊の1個小隊、野戦砲兵第6聯隊の山砲1個中隊(6門)、工兵第6大隊の1個中隊と第6師団衛生隊の半分をあてました。騎兵は捜索や偵察にあたり、また連絡任務もこなせるように必ず配属されます。工兵も同じように、敵前での簡易陣地構築や敵堡塁の爆破などに使われました。師団衛生隊は戦時、野戦師団の編制内にある部隊です。傷病者を運ぶことを任務としている軍隊でした。衛生部の所属ではありません。指揮官以下、兵科の軍人を主としました。右翼縦隊には第1師団、混成旅団、それに攻城廠をあてました。

▼清軍の防備状況

 清国はこの渤海の関門にあたる旅順口に十数年にわたって近代要塞を築き続けていました。砲戦砲台(敵艦と撃ち合う)を3つも備え、9個の補助砲台もあり、水雷営所も港口の東におきました。港口の西南岸には電気灯台もあって海面も照らすことができたそうです。

 軍港を背負う要塞の陸正面には10年後の日露戦争でも有名になる蟠桃山・大坡山(だいはさん)・小坡山・鶏冠山(けいかんざん)・二龍山・松樹山にわたる半円形の堡塁群を備えていました。9個の半永久砲台と4個の臨時砲台がありました。また、稜線には高さ約2メートル、上部の厚さは1メートルにもなる胸檣(きょうしょう・防禦用の壁)を築いていたのです。

 ところが、問題は守備兵とその指揮官たちでした。戦意も低く、国家への忠誠心も見当たらず、何より友軍への信義も守らない・・・逃亡までする、そういった事実があります。

 有名な日本騎兵が苦戦した話が残っています。『坂の上の雲』でも描かれましたが、秋山好古少佐の指揮する騎兵隊が清軍の歩兵に襲われました。また、清国軍の山砲兵も2門、戦闘に加わり、わが歩兵も騎兵も苦戦します。この敵砲兵を襲ったのがわが歩兵1個中隊でしたが、工兵が歩兵に代わって陣地を守り、歩兵の果敢な攻撃で敵を撃退しました。工兵というのは技術者集団でありながら、いざとなると歩兵戦闘も行なう兵科です。

 清軍は歩兵約5000名、騎兵約100名、山砲2門でした。対してわが軍は歩兵約600名、騎兵約200名です。死傷者は将校以下11名、負傷者37名、消費した銃弾は約6000発でした。距離200メートルから300メートルの射撃戦だったようです。また、後退する清国兵は、わが戦死者の首を切り取り、負傷者の救護もせずに惨殺するという暴行を行ないました。すべてではないようですが、当時の清国兵のレベルはそのようだったといいます。わが国はその点、「文明の軍隊」たらんとし、俘虜の扱いなどには注意しました。

▼要塞防衛戦の失敗

 11月16日のことでした。旅順口にいた清国海軍水雷艇8隻は、すべて威海衛軍港に脱出しました。旅順口の海域を守る兵力は、まったくなくなります。陸軍指揮官も芝罘(ちーふー)に脱出した者もありました。指揮官に捨てられた清国兵は秩序も守らず、旅順市街で暴行、略奪を始めたのです。造船所などの施設の官吏は物資、装備を奪い、船を雇い逃亡しました。

 11月21日には案子山堡塁が陥落し、二龍山・松樹山が相次いで占領され、守備兵は海に逃れ、あるいは軍服を脱ぎ捨て民間人に偽装して脱出します。一方、金州城を襲った約7000名の清国軍は日本軍哨戒兵を破り、緒戦は勢いを示しますが砲の装備がなく、反対に金州城を守るわが軍には砲兵がおりました。この砲兵の活躍で兵力は少なかったのですが、金州城を守りとおすことができました。

▼戦場での榴霰弾

 第3師団(桂太郎中将)の2個旅団(第5、第6旅団)は歩兵第6(名古屋)、同7(金沢)、同18(豊橋)、同19(名古屋)の4個聯隊で成っていました。これを野戦砲兵第6聯隊の3個大隊(36門)が支援します。その戦闘の記録が残っています。

 12月19日、海城から西方にある缸瓦寨(こうがさい)で歩兵第7聯隊は陣地にこもる清国兵を攻撃、砲兵3個中隊の掩護を受け、さらに2個砲兵中隊が加わりました。

 参加した戦闘員は3960名、山砲が30門でした。清国兵は約9200名で山砲と野砲が6門ないし7門。わが軍の死者は69名、負傷者339名でした。費消した砲弾は、榴弾273発、榴霰弾1110発、小銃弾6万5241発となっています。

 乃木将軍が指揮した混成第1旅団も蓋平(がいへい)城を攻撃していました。1895(明治28)年1月10日のことです。歩兵第15聯隊(群馬県高崎)第3大隊が前進中、ある集落から500メートルの地点で200挺あまりの小銃から射撃を受けました。その集落を占領すると清軍も負けていません。両軍砲兵が撃ち合います。

 この日の戦闘の参加兵力は、清軍は歩兵8営、砲兵200、火砲4門だそうです。対してわが兵力は歩兵6大隊、騎兵2中隊、砲兵2中隊、工兵1中隊などで戦闘員約5500名、野砲12門でした。清軍の死者は約450名、馬匹約20頭、小銃102挺、大砲3門を捨てて逃げ、捕虜が下士卒32名です。わが死者は将校以下36名、負傷298名を出しました。

 野砲12門が発射したのは榴霰弾570発だけで榴弾は撃っていません。小銃弾は12万1579発でした。野砲1門あたりおよそ48発の榴霰弾を撃ち、歩兵4500名と数えれば1人あたり27発を撃っています。