陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(17)東京湾防衛の要塞(5)

2023年7月6日

□はじめに

 梅雨の晴れ間といいますが猛暑にあぶられています。毎日の気温の乱高下には合わせるのが難しく、周囲には夏風邪をひいた人も多くいるようです。わたしもご多分にもれず、鼻と喉の痛み、咳の多発に難儀しました。コロナではなく、風邪とのことで安心もしましたが、咳と鼻水には苦しめられました。皆さまもご注意ください。

▼日清戦争に備えて

 明治10年代後期ころから陸軍の台所は火の車でした。朝鮮への清国の圧力は高まり、ロシアもまた伝統的な南下政策はやむ気配もありません。山田朗氏の『軍備拡張の近代史』によれば、1885(明治18)年の一般会計は約6100万円、うち軍事費は約1550万円で全体の約26%を占めていました。国民総生産の1.9%です。

 戦争準備には金がかかります。歩兵聯隊の数も1878(明治11)年には15個に過ぎなかったのですが、1884年には3個、翌年には5個、その次には1個が増設され、28個聯隊になりました。各師団は4個歩兵聯隊で構成されますから7個師団が準備されたわけです。1888(明治21)年には鎮台が師団になりました。

 この準備も大慌てで行なわれます。もともと1882(明治15)年に立てられた軍備拡充計画は1885年から行なわれるはずでしたが、計画の実行が1881年に始まりだったはずが前倒しされて1882年から10カ年計画で完成されることになりました。

 1889(明治22)年には徴兵令が改正されます。兵役区分を常備・後備・補充・国民兵役として戦時動員の体制を整備しました。戦時には3倍以上になる兵員を組織できるように計画します。

 師団の平時編制では人員9199名、馬匹1172頭でした。3449名、馬匹33頭の歩兵旅団が2個(1721名・馬匹14頭の歩兵聯隊2個で1個歩兵旅団)、と騎兵大隊(3個中隊)、工兵大隊(3個中隊)、輜重兵大隊(2個中隊)そして砲兵聯隊(野砲大隊2個、山砲大隊1個。人員722名・馬匹311頭)でできています。

 それが戦時編制になると師団総人員は約18000名と倍増します。馬も約5500頭と約5倍となりました。野砲兵聯隊も約1300名と増え、大架橋(がきょう)縦列、小架橋縦列、そうして衛生隊(約400名)、弾薬大隊(前同1500名)、野戦病院等が戦時特設されました。

縦列というのは他にも輜重兵の糧食縦列などもあり、小隊がいくつか集まった中隊規模の部隊です。架橋縦列は戦場で橋を架ける工兵の専門部隊でした。弾薬大隊というのは火砲や小銃の弾薬を補給する専門の部隊です。砲兵将校に指揮された砲兵輸卒がおりました。

制度の改編とは大変なことです。装備が新しくなればその使い方や保守の教育が、用兵の改編があれば指揮官の養成、下士兵卒の訓練などなどが必須になります。

また、それまでは移動できる沿岸砲台と思われていた海軍も外洋戦闘能力を高めねばなりません。制海権をとるために主要な艦艇は主に英・仏からの輸入に頼りました。1871(明治4)年に海軍省が発足したときには14隻、総排水量が1万2351トンにしか過ぎなかった軍艦も、1883年から90年までに42隻へと大増強という計画も立てられます。実際のところは予算不足で、そこまでは達成しませんでしが、1894年の日清開戦時には軍艦28隻で総排水量5万7600トン、水雷艇24隻同1475トンを持つようになりました。

▼グリッロ砲兵少佐の来日

 強力な装甲を舷側に施した高速で動く敵艦に命中弾を与えるのは、長砲身、高初速の加農が有利。装甲が甲板には施されていない、もしくは軽装甲の艦艇を撃つには擲射ができる大口径の榴弾砲が有利。どちらもまっとうな理がありました。海岸要塞の主な装備にはどちらが向いているだろうか、そんな論争が続きます。

 また、同じ頃には国軍には国産兵器を装備すべきという当然の主張をする人たちも多くいました。小火器の歴史には高名な村田経芳(むらた・つねよし、1838~1921年)が純国産小銃だった13年式村田銃を1880年に制式化し、1885年には改良型である18年式村田銃が完成します。

 そうして陸軍はイタリア陸軍のポンペオ・グリッロ砲兵少佐を招き、新しい火砲の製造を学びました。グリッロはしばしばグリローとされ、多くの文献ではそう書かれています。ところがイタリア文化に詳しい人によればグリッロというのが正しい発音だそうです。だから以後はグリッロという表記にします。

 グリッロ少佐は1843年にピエモンテ州に生まれ、砲兵としてイタリア独立戦争に参加し、火砲の鋳造や設計に詳しい人でした。1884年2月にイタリアを離れ、わが国にやってきます。砲兵の指導者であった大山巌は、「イタリアも長大な海岸線をもち、沿岸防衛の難しさでわが国と共通点がある」といい、イタリア軍と話し合った結果でした。

 ところで、火砲の歴史を学ぶと興味深い事実があります。それは各国どこでも75ミリ前後の口径をもつ砲を野砲とし、それより1段階上の口径の砲は100ミリ、さらに大きな口径は150ミリ前後という大きさになりました。

 日本陸軍も野砲は75ミリでしたが、列国がいう15珊榴弾砲や15珊加農はそれぞれの口径は異なります。わが国の15榴(弾砲)や15加(農)は149ミリでした。英国は6インチですからミリでいえば152ミリ、ドイツは150ミリちょうどでした。フランスは155ミリでした。アメリカはこれを導入します。英国式の6インチを採用したのはロシアでした。したがって1939(昭和14)年のノモンハン事件で撃ち合った15糎(センチ)クラスの重砲は、日本149ミリ、ソ連152ミリだったのです。

 なお、1923(大正12)年に長さの単位の呼び方がフランス風の珊(サンチ)から英語読みの糎(センチ)に変わり、ついでに粍(ミリメートル)などの国字ができました。メートル(米突)を表す「米」篇をつけ厘・毛でセンチメートルやミリメートルを表記するとは工夫したものでした。

 したがってグリッロ少佐がイタリアのアンサルド社の技術を応用して設計した有名な榴弾砲は、制定時には「二十八珊榴弾砲」でしたが、昭和では「二十八糎榴弾砲」と書かれるようになりました。(つづく)

 

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。