陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(3) ナポレオンの軍隊
□はじめに
「ナポレオンは戦術を知らない」。彼と戦った敵の将軍はみなそう言いあったようです。彼はそれまでの軍隊の戦闘に関する考え方をすべて変えてしまいました。
それまでの軍隊は横隊で押し出すものでした。中隊ごとに2列横隊で指揮官は先頭に立ち、両脇には列を整え、逃亡兵を出さぬように長い斧を持った下士官がいました。太鼓に合わせ、歩武堂々の行進をし、50メートルほどの有効射程に入ればマスケット銃を構えて一斉射撃。倒れた仲間の位置にはすぐに後ろの者が入ります。
マスケット銃というのは17世紀の初めころから現われた銃口から弾丸と装薬をこめる(前装式)小銃の総称です。有名なのはイギリス製のブラウン・ベスという1690年に設計された火打石式発火装置(フリント・ロック)の小銃でした。原理を理解するには、100円ライターの歯輪と燧石が最適です。
ブラウン・ベス小銃は細かい改良はされ続けたものの1840年まで使われました。それまでの火縄式発火装置(マッチ・ロック)と比べると発射速度は2倍になり、不発率もずいぶん少ないものでした。33%ほどと言われていますから、火縄式の50%より発射成功率もかなり高くなりました。
ところが、ナポレオンの軍隊には厳格な隊列に入らずに、2人が1組になって自由に行動する銃兵がいました。地形に身を隠し、ボサ(草むら)の陰からお互いを援護しつつ、横隊をつくっている敵兵を狙撃します。現代からすれば、自分の身を隠して敵を撃つ、しごく当然のことなのですが、当時はまったく常識外れの行動でした。
では18世紀の中ごろでは何が普通だったのか。それはアントワーヌ・アンリ・ジョミニ(1779~1869年)の著書『ジョミニ・戦争概論(邦訳題)』(佐藤徳太郎訳・1979年・原書房)に書かれている情景があります。ジョミニはスイスに生まれ、スイス軍、フランス軍、ロシア軍で勤務を続けた有能な参謀であり将軍でした。とくに注意すべきはナポレオンの執務や考え方を間近に見、聞きした人であることです。
ときは1745年のことです。フォントノアの戦いで、お互いに50歩の距離で向かい合った横隊の英国近衛歩兵第1聯隊と、同じく横隊のフランス軍近衛聯隊。その指揮官同士が「先に撃て」と挨拶をし合ってから射撃を行なったという「美談」でした。まだまだ戦争をスポーツと認め合うフェアプレイの精神があったのでしょう。
▼ナポレオンはどのように戦ったか?
実はナポレオン軍には大きな弱点がありました。それは徴兵制軍隊であったことでした。しかも反革命の嵐が吹き荒れた18世紀の末です。欧州の各国陸軍はよく訓練された志願制の歩兵をたくさん持ち、横隊戦術を整然と行うことができました。それに対してフランス軍には訓練時間がありません。
ところが、フランス軍には貴重な経験がありました。アメリカ独立戦争で、プロ集団の英国歩兵をさんざん悩ませてアメリカ独立派の民兵たちが活躍します。1775年のことでした。有名なコンコードの戦いです。英国歩兵は民兵たちの「ごろつき」、あるいは「追はぎ」といった「卑劣な」攻撃に敗れました。
アメリカ民兵たちは先住民との戦いで学んでいたのです。一人ひとりが判断し、敵を狙撃する、そういった自律的な戦い方をしたのでした。この戦いで活躍した民兵たちをミニットマンと言いました。のちに大陸間弾道弾の名前にもなっています。欧州軍隊の横隊密集戦闘に対しての散兵戦闘の有効性が見せつけられました。
フランス軍の将校や下士官はこれを学んでいたのです。反革命戦争に、これを応用しました。ナポレオンはこれをさらに組織化し、1804年には「遊撃兵中隊」を編成します。翌年から1808年までに、軽歩兵聯隊は4個大隊で成り、各大隊は1個擲弾兵中隊、同遊撃兵中隊、4個猟兵中隊となります。そして1個訓練大隊(4個中隊)が付属しました(『ナポレオンの軍隊』木元前掲書)。
どんな戦いをしたか。わたしたちは黒色火薬がどれほどの煙幕になるかを知りません。地域の行事などで伝統的な火術を見る機会はありますが、現代の黒色火薬しか使えない空砲射撃でもけっこうな煙が出ることは分かります。1挺ずつの発砲煙が、あの数倍にもなり、さらには数十挺分の大量な煙はまさに煙幕です。
敵は撃たれれば混乱します。しかも相手は姿を見せません。砲兵の射撃がさらに加わり、フランス軍の姿はさらに見えなくなりました。そうして、その砲煙や銃から出た煙幕の後ろにはフランス歩兵の縦隊が突入の機会を待っています。
ナポレオンの軍隊の強さは、これまでの用兵の常識では図れないものだったのです。
▼穿孔(せんこう)機械の発明
18世紀前半には大きな火砲の技術的進歩がありました。まず、フランス軍ではジャン・ヴァリエール(1667~1759年)による大砲の整理による各種口径が統一されます。しかし、いくら口径を揃えても、それぞれの大砲が異なった鋳型で造られている以上、現代のような規格化からは遠く離れているものでした。
外形を決めるのは統一された鋳型です。では重要な砲腔(ほうこう・内部の穴)はどう造られたのでしょうか。それは中子(なかご)を差し込むことでした。鋳型と中子の間に熔けたガンメタル(砲金)を注入しました。問題はこの中子の固定の精度でした。きちんと固定する技術がなかったために金属の重さや熱膨張で、当然、動いてしまいます。したがって、現在のような同規格の、きちんとした大砲など造れませんでした。
しかも、こうして鋳造された加農(平射を行なう)はかなり重くなり、とても野戦に持ち出せるようなものではなかったのです。要塞に固定されるか、あるいは要塞を攻撃するために機動力を必要としない攻城砲として使うか、艦載砲にしか使えませんでした。
これを大きく転換したのが、スイス人技師ジャン・マリッツ(1680~1743年)です。彼は中身の詰まった金属の塊として砲身を鋳造し、あとから穴(砲腔)を開けた方が正確に規格化できるのではないかと考えました。彼は息子といっしょに穿孔機械を開発します。そうして同名の息子のジャン・マリッツ(1711~90年)は1755年にはフランスのすべての王立兵器廠に彼の機械を据えるように命じられました。
機械の特徴は穿孔する刃を固定して砲身を回転させることでした。刃はおもりと歯車装置で前に進みます。いつでも一定の圧力で砲身をえぐっていきました。砲身は重く、回転する慣性によって回転軸がぶれることはありません。回転する動力は水力、馬力、蒸気力でした。国際特許などのわずらわしい手続きがなかった時代です。この穿孔機はすぐに各国で採用されるようになりました。
▼規格が統一された大砲とは?
この革新的技術開発のおかげで、どの大砲でも同じ砲腔となりました。砲手がいちいちその大砲のクセを知る必要がなくなります。また中心線が必ず砲身の中心を通るので、安全性が高まりました。装薬(そうやく・発射用の火薬)の燃焼・炸裂に対して、360度すべてにわたって砲身の厚み、強度が等しくなったからです。
そうして何より重要な特長として、これまでよりも砲身を軽く造れて、装薬も少なくすることができました。正確に穿たれた砲腔のおかげです。まず、砲腔と弾丸の直径の差を少なくできました。そうなると発射ガスの漏れが減り、少ない装薬で同じ効果が得られます。同じ理由で砲身自体を短くすることができます。装薬が少なくなれば、薬室(同じ砲腔内での最後部)の周囲の厚みを減らせました。こうして砲身ばかりか、砲架(ほうが・砲を支える重要な部品)も軽量化でき、砲の機動性も増したのです。
この新しい大砲をさらに使い良いものにするために多くのフランス人技術者が努力しました。その第一人者こそ砲兵監ジャン・バティスト・ヴァケット・ド・グリボーバル(1715~89年)でした。
次回はナポレオンの軍隊を支えたグリボーバル砲と戦術、砲兵の誕生などの話題にします。また、教育機関リセやエコール・ポリテクニクなども扱います。なお、今回の技術史に関しては、『戦争の世界史─技術と軍隊と社会』(ウィリアム・H・マクニ―ル、高橋均訳、2014年、中央公論新社)を参考にしました。(つづく)