陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(2)幕末日本の砲

□ご挨拶

 もうすぐ春のお彼岸、いかがお過ごしでしょうか。暑さ、寒さも彼岸までといいます。各地で桜の開花もあり、楽しい季節となりました。一方、ウクライナの情勢はますます混沌の様子を見せています。新聞記事によると、中国が砲弾をロシアに供与するという動きもあるようです。

しかし、現在では射程40~50キロのアメリカ製砲弾エクスカリバーが注目を浴びています。エクスカリバーは列国が装備する155ミリ榴弾砲から発射されます。安定翼と操舵翼をもち、通常の榴弾と同じに最高々度からは滑空して目標に向かうのです。その滑空時にGPSに誘導されて弾着の誤差はわずか1メートルほどと言われます。これがロシア軍戦車を次々と破壊したそうです。

内部には精密な回路や基盤があるようですが、強烈な発射時の重力に耐えられるシステムを持っていることに驚かされます。射程も米軍がもつM777榴弾砲が24キロとされていますから2倍に伸びているわけです。

砲兵の歴史の大きな転換点がやってきたと思います。それでは今回も昔のことから始めてゆきましょう。

▼大切な閉鎖機構

 口径の小さい銃であろうと、大きな火砲であろうと、銃砲身に穴が開いていること、そうして穴の片方が密閉される必要があることは同じです。発射用の火薬(これを装薬といいます)の燃焼によって生まれるガスによって銃砲弾が撃ちだされるのですから、一方だけに出口があるのは当たり前でしょう。

 有名な逸話に鉄炮を初めて見た種子島の人たちが、銃身の後ろのふさぎ方が分からず、娘を差し出してネジ(螺子)を発見したというものがあります。ただ、これはいわゆる伝説であって現在は否定されています。

この頃から長い間、弾丸(球形のもの)は銃・砲口からこめるものでした。これを前装式といいます。したがって、腔内の直径は弾丸の口径よりわずかに広いものでした。そこからガスは漏れるし、弾丸は腔内を上下左右に揺れながら進みます。火縄銃の有効射程が50メートルほどというのもそこからきているわけです。

 銃や砲が後装式(銃砲身の後ろから弾や装薬をこめる)になると密閉する装置が必要になりました。それを銃では遊底(ゆうてい)といい、砲では閉鎖機といいます。銃の遊底の多くはボルトといわれる手動で操作するものでした。これを槓桿式(こうかんしき)、ボルト・アクションといいます。

▼国産鋳鉄砲

 徳川幕府の政策で海外に開いた港は長崎に限られていました。しかし、長大な海岸線をもつわが国、欧米諸国の圧力が次第に大きくなって、海防が論じられるようになったのは18世紀の末頃でした。そうして西洋兵学と兵器技術の研究を始めたのは19世紀になってからです。

 長崎の町役人だった高島秋帆(たかしま・しゅうはん、1798~1866年)や幕臣の江川太郎左衛門(1801~55年)、信州上田藩の佐久間象山(さくま・しょうざん、1811~64年)などが先駆者でした。佐久間は蘭学や兵学(砲術)を学び、「和魂洋才(わこん・ようざい)を唱えて、開国論も主張します。日本人で初めてカール・フォン・クラウゼヴィッツの「戦争論」を読んだ人ではないかといわれています。

 クラウゼヴィッツ(1780~1831年)は1792年にプロイセン軍に入隊しました。1875年に歩兵少尉になり、士官学校ではシャルンホルストの指導を受けます。詳しいことは『クラウゼヴィッツと戦争論』(石原ヒロアキ・2019年・並木書房)をご覧ください。この将軍がベルリンの兵学校長時代に著した戦争哲学が、彼の死後、妻の手によって出版されました。

 初版から25年後ほどで、象山はオランダ語訳で読んだようです。贈ったのは彼の義兄にあたる幕臣勝海舟とのこと(「日本陸軍用兵思想史」前原透・1994年・天狼書店)。象山は「ストラテジー(戦略)」の理解が深まったと勝に手紙で述べています。

 幕府韮山(にらやま)代官江川も長崎役人高島も、砲術家というだけではなく、大砲を造ることにも心を注いだ造兵家でもありました。高島はオランダ人から砲術・技術を学び、のちに幕府講武所の教授にもなります。また、江川は1854年に反射炉を完成させました。

 この反射炉は現在も見ることができますが、鉄によって砲を造ろうとした努力の結晶でした。幕府は諸藩に沿岸に海岸砲を据えるように命じます。当時、西欧では砲身の製作には銅と錫の合金(10%ほど)である青銅の一種を使っていました。これを砲金(ほうきん)、ガンメタルなどといいます。それが銅の不足で使えず、鉄で造ろうとしたわけです。

 この場合の鉄は鋼鉄ではなく、鋳鉄(ちゅうてつ)でした。鋳物(いもの)ですね。鋳鉄は炭素を2~4.5%ほど含んでいて、機械加工には向いていますが、衝撃には弱いものです。砲身のような大型のものには鉄瓶(てつびん)の製造に使われる坩堝(るつぼ)法ではとても間に合いません。坩堝とは耐熱性の容器で、金属製、粘土製、黒鉛製などの容器です。そこに素材を入れて熔解し、精錬するものでした。

 大型の鋳物を造るには反射炉を造ればよい・・・とオランダの書物に書いてありました。反射炉とは構造からきた名称です。燃焼室と加熱室が別になっています。天井と側壁の放射熱(つまり反射)のおかげでただ燃料を炊いただけよりもさらに高熱で鉱石や金属を製錬・溶融することができました。1826年に刊行されたヒュギニエンという人の「鉄熕(てっこう)鋳造法」という本に載っています。 

 そこには反射炉の設計図もありました。初めて反射炉を造ったのは佐賀鍋島家でした。1850年、アメリカのペリー来航より3年も前のことです。第2号は薩摩島津家です。1856年のことで、その翌年に韮山、水戸徳川家が建設に成功します。

 こうして各藩では鋳鉄製の大砲を装備することになりました。1864年には「馬関(ばかん)戦争」といわれる教科書にもある四カ国聯合艦隊と長門毛利家との砲撃戦がありました。このときの火砲は鋳鉄製の前装砲でした。

▼ナポレオンの野砲

 砲兵出身だったナポレオン・ボナパルト(1769~1821年)は幕末日本では大有名人でした。その軍人としての名声だけではなく、フランス革命の精神を重んじた思想家としても尊敬されていました。西郷隆盛などもいつも「奈翁」と敬称し、その画像も大切にしていたようです。

 ナポレオンの凄さは、まず、火砲の制式を標準化・軽量化し、しかも専門家の砲兵を養成し、戦場で機動的に運用したことです。以下は木元寛明氏の「ナポレオンの軍隊」(光人社NF文庫・2020年)のご教示によります。

 もともと軽快な運動性を誇る野砲(フィールド・ガン)は1630年、スウェーデン王であったグスタフ・アドルフが鋳鉄製4ポンドが始まりです。重量は500ポンド(約225キログラム)でしかなく、馬が2頭で曳きました。操作するのはたった3人で、たちまち戦場を制圧します。この火砲はドイツ、フランス、オーストリアが採用し、歩兵・騎兵・砲兵による「三兵戦術」が生まれました。

 わが国にそれを初めて紹介したのは蘭学者高野長英(1804~50年)でした。プロシャの将軍が書いた戦術の教科書を彼が訳した「三兵答古知幾(さんぺいタクチーキ)」が有名です。タクチーキとは英語ではタクティクス、つまり戦術をいいます。

 次回はナポレオンの野砲について調べてみます。(つづく)

 

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。