陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(4) 大きく発達した野戦砲

□はじめに

 1763年から67年にかけて、グリヴォーバル中将に指導された技術者たちは、さまざまな野戦砲に関する改良や発明を行ないました。車輪付きの砲架(ほうが)、つまり砲車と連結する前車(ぜんしゃ・弾薬車)や、大型の弾薬運搬車、輓馬(ばんば・牽引馬)に着装する繋駕具(けいがぐ)、照準装置などなどでした。これらの開発の元となった発想はすべてシンプルで急進的だったそうです(「戦争の世界史」)。

砲車と弾薬車を連結して4輪のトレーラーとしました。それまでは火砲を頑丈な荷車に積んだり、分解して駄馬の背中に載せたりして運んでいました。それを4輪車にして操縦性を高めたことで、火砲はそれまでと比べ物にならないほどの機動力をもちました。行軍する歩兵といっしょに行動できるようになったのです。

照準は砲身の仰角(ぎょうかく)と左右に向ける方位角(ほういかく)を決めることで行ないます。仰角を設定するには砲架につけたネジ式の上下動装置を使いました。砲身には砲耳(ほうじ)という、砲身から直角に突き出た砲架に載せるための突起がありますが、これを支点にして角度をつけます。砲尾についたネジ式の装置で砲口は上下しました。

▼砲弾の開発

また砲弾と装薬(発射火薬)を1つのパッケージにしました。別々に砲身に押し込んでいた従来の装塡法と比べると約半分の時間でできるようになりました。つまり単位時間で撃ちだされる砲弾は2倍となります。

砲弾そのものの開発も行ないました。球形の実体弾であるソリッド・ショット、中が中空になっていて炸薬が詰められるシェル、そうして散弾などが内蔵されたキャニスター・ショットの3種類です。

これまで大砲といえば大きな鉄丸だけを撃つものでした。そのスピードと重さで強烈な破壊力がありました。要塞の石垣や塔は崩され、城門は破られ、艦船の舷側は穴をあけられます。密集した歩兵の列に撃ち込まれれば、ふれた者すべてが倒されました。しかし、薄い弾殻の中で火薬を爆発させたらどうでしょう。弾片が飛び散り、周囲にはたいへん危険なものになります。

そうした発想は古くからありました。わが国でも高麗と元に侵攻されたとき、「てつはう」という武器に苦しめられました。炸裂して大きな音を出し、破片が飛び散り、馬を驚かせ、武士は対応に困りました。あれには導火線がついています。弾の内部の炸薬に火をつけるためのものでした。

▼信管を切る

中に炸薬を詰められ導火線を付けられたシェルは爆発まで間が空きます。導火線が燃え尽き、炸薬に点火するまでの時間です。炸薬が爆発することで弾殻(だんこく)が破裂し、破片や衝撃波で周囲に危害を及ぼしました。

ナポレオンのロシア侵攻を描いたトルストイの名作、「戦争と平和」の中で、歩兵聯隊長だったアンドレイ公爵が重傷を負う場面が印象的です。予備隊として待機する部下たちの前に立つ彼の足もとに、シューシューと火花を散らすシェルが落ちてきます。くるくる回るネズミ花火のようです。実際には短くても、次官を長く感じたシェルが爆発する瞬間までアンドレイはそれを見つめていました。

また、軍艦同士の砲撃戦や軍艦対要塞の戦いでもシェルは使われたようです。ナポレオン戦争時代の海軍士官の活躍を描いた英国作家のホーンブロワー・シリーズの中にも、似た場面が出てきます。艦尾甲板の上にシェルが落ちました。火花を噴いて回転する敵弾を、他のみなが茫然と見つめる中で、艦長は手袋をした手で拾い上げて海中に放り込みます。

そして、戊辰戦争の会津若松城の攻防戦でも、城内に撃ち込まれたシェルに布団をかぶせて火を消そうとした子女の話が残っています。

このように火縄の長さを調節して爆発するまでの時間を決めます。そのためにのちの時代になって起爆する信管という名称がついたヒモを切るために、「信管を切る」という言葉が使われるようになりました。現在でもデジタル機器で榴弾に信管をセットしますが、これもいまだに「信管を切る」といわれています。自衛隊砲兵も同じです。

▼散弾銃のようなキャニスター・ショット

キャニスター・ショットは弾殻とはいえない袋状の容器と考えていいでしょう。グレープ・ショットともいわれました。内部には小さな子弾(しだん)、パチンコ玉のようなものが入っていて、砲口から飛び出すとすぐに広がります。いまでも鳥獣を狩るために散弾銃は使われています。それと原理は少しも変わりません。のちに霰弾(さんだん)と訳されるようになりました。

▼機動と放列

 軍隊が戦場に戦闘のために移動することを「機動」といいます。作戦機動、戦術機動、そして戦場機動の3種に分かれます。作戦機動とは予想される戦場までの機動をいいます。行軍というと理解しやすいでしょう。まさに移動です。戦術機動は、戦場で戦闘展開によって射撃陣地に進入する、陣地占領するということになります。

ここまでは砲車は前車(弾薬車)と連結され、4輪トレーラーを構成して輓馬で曳かれていました。12ポンド砲なら6頭、より軽量の8ポンド、4ポンド砲はそれぞれ4頭の馬で牽引されました。陣地に進入すると、馬はここで放されて安全な後方にさげられました。だから放列という言葉が生まれました。砲の列ではなく、放列砲車重量などと表記されるわけです。

戦場機動は人力で行なわれました。射撃開始後に歩兵が前進し、さらに野砲を推進するときには砲手たちは牽引ロープにショルダー・ベルトをかけて動かします。これを帝国陸軍では「臂力搬送(ひりきはんそう)」といい、どこの国の砲兵もその訓練もしていました。馬が倒れた、牽引車が故障したとなったら、人が引っ張るしかありません。

このように軽量化されたのはグリヴォーバル将軍のおかげです。また同じ型式の砲ならば、部品はすべて同一という規格の統一が図られていました。ほんとうに現代の我々から見れば当たり前のことができていなかったのです。すべての規格が別々となると、部品が故障して交換しようとしてもうまくいかないのが当たり前。車輪の取りつけ位置の穴が異なるなどと不具合ばかりでした。

▼砲兵の誕生

 驚いたことに砲兵が「兵」となったのは、この時代のことでした。それまでは砲兵という兵科はありません。戦場で、要塞で砲を扱っていたのは契約した民間人でした。だから戦闘が終わると、彼らはてんでに砲兵工廠に帰って行きました。

 19世紀初めのナポレオン軍には軍服を着て、所属の部隊章、階級章を付けた砲兵がいました。ナポレオン軍は戦場への機動力に優れ、砲の性能は安定し、専門の技術者である砲兵将校、下士官、砲手、馭兵(ぎょへい・砲車を操縦する人も含む)が今のように揃った軍隊でした。

 次回は「人の側面」について調べたことをお話します。(つづく)


 次回は「人の側面」について調べたことをお話します。(つづく)


荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。