陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(15)東京湾防衛の要塞(3)
□はじめに
1871(明治4)年のことでした。兵部大輔(ひょうぶたゆう)だった山縣有朋は兵部少輔川村純義と同西郷従道との連名で「軍備意見書」を出しました。
1)軍備は国内向けから外国向けに変える。2)徴兵制を布くべきである。3)沿海防禦のために、軍艦建造と海岸砲台を建設すること。4)兵学寮(士官養成)、造兵司(兵器生産)、武庫司(武器弾薬の備蓄)の設置こそが重要であること。5)対ロシアのための軍備が重要であること。これらが主な内容です。
山縣は沿岸各地に砲台を整備し、動く砲台である軍艦が大切と考えていました。
1872(明治5)年には兵部省が海軍省と陸軍省と分かれます。山縣陸軍大輔はフランス陸軍のマルクリー中佐に命じて明治6年、東京湾を視察させて「海岸防禦方案」を書かせました。マルクリーは大都市の防衛こそ急務であるとして、次の場所を示します。まず、東京湾口の品川湾、横浜、横須賀湾。次に内海に通じる海峡、神戸と大阪湾。そうして鹿児島、長崎、仙台をあげています。
東京湾口の防衛には、横須賀の観音崎、千葉県富津(ふっつ)岬、猿島(さるしま・横須賀港沖)に砲台を築き、富津洲には海堡(かいほ)を建設すると書いてあります(のちに第1海堡となります、当時は富津海堡といいました)。
東京の防禦には、幕末からの品川台場は市街地に近すぎて防衛に不十分だといい、浜川崎(神奈川県川崎市)と多摩川河口から江戸川河口まで水雷線を敷設するとしました。横浜の防禦には砲台設置に適さないので、海中に水雷線を布設して鶴見川河口(現在は川崎市と横浜市の境になる)に砲台を設けるという案を出しました。
その後に、鳥尾小弥太(とりお・こやた)陸軍少将が「東京湾海防策」を提出しますが、1874(明治7)年12月に牧野毅(まきの・たけし)、黒田久孝(くろだ・ひさたか)の両少佐が「東京湾防禦案」を建議しました。それによると、観音崎・走水(はしりみず)・猿島に砲台を建設する、富津岬の先端に海堡を築く、富津岬にも砲台を設け、敵の上陸を防ぐために野砲陣地を置くべしと、より具体的になっています。
野砲陣地を置くというのも帆船海軍の時代から要塞攻撃の常道として、陸戦兵力を揚陸して側背部から砲台を攻略しておりました。幕末の勝海舟も富津海岸に敵勢が上陸することをたいへん恐れていましたから上陸地点については一致していたわけです。
▼東京湾要塞とは
首都東京と重要な横須賀軍港を守るための砲台群です。1880(明治13)年に観音崎(かんのんざき)第2砲台から建設が始まります。観音崎は三浦半島東端にあり、浦賀水道に面しています。先端にはフランス人ウェルニーの設計した灯台がありました。現在は海上自衛隊が管轄する儀礼専用の礼砲砲台があり、外国艦船の公式訪問には定められた数の礼砲を撃っています。これは元は観音崎第4砲台といわれていました。
東京湾要塞には全部で24カ所の砲台が建設されました。横須賀軍港を直接守る砲台が6、東京湾への侵入を阻止するためのものが15、そうしてそれら砲台を背後から守るための砲台が3つあります。
海面にある敵艦艇と直接交戦するものを「砲台」あるいは「海岸砲台」といい、上陸して背面から砲台に迫る敵に対処する任務をもつものを「堡塁」といいました。どちらも行なえる、海正面にも陸正面にも対処できるものを「堡塁砲台」とします。24ある砲台のうち、堡塁砲台は1つであり、堡塁は3つあります。
この機能から配備される砲種や砲数が決まりました。ただ1つの堡塁砲台は現在の防衛大学校構内にあった花立台砲台でした。現在の鴨居4丁目付近です。備砲は対艦艇用に12糎加農(カノン)が4門、28糎榴弾砲が8門、それに陸正面に対応する15糎臼砲が4門という強力なものでした。
この砲台を敵からの攻撃を防ぐ堡塁は小原台(まさに防衛大学校の所在地の名を冠した砲台)、大浦砲台(観音崎公園の中、戦没者船員の碑の場所)、腰越(こしごえ)砲台でした(同じく観音崎公園の中の「遊具」がある)。それぞれ12糎加農6門、15糎臼砲4門、9糎加農2門ずつがありました。臼砲は射程が短く、主に来襲する敵歩兵や砲兵に備えるものです。
▼任務や目的による分類もある
- 砲戦砲台とは、長い時間にわたって敵艦艇と交戦します。多数の砲弾や装薬、戦闘材料を備蓄していました。位置は岬の先端や島などの射界が大きく取れるところです。備砲は長射程で、砲弾威力が大きい大口径砲です。いまは観光地として有名な猿島砲台がこれです。24糎加農4門、27糎同が2門ありました。フランドル(フランス式ともいう)式のレンガ積みが見られます。兵舎、トンネルや砲座の跡が保存されています。
- 要撃砲台は海峡や湾口などの狭い水道や航路を通る艦艇を射撃しました。位置は水道や航路に面する沿岸の低地です。山などによって遮蔽(しゃへい・隠されている)されて発見されにくい場所を選びます。横須賀軍港を守る笹山砲台、箱崎低砲台、同高砲台、波島砲台がそれらです。いずれも米軍基地内に今はあります。24糎加農、28糎榴弾砲などが配備されました。砲戦も行なう砲戦要撃砲台は米ヶ浜(よねがはま)砲台で24糎加農2門、28糎榴弾砲が6門ありました。現在は横須賀中央公園になっています。掩蔽部が以前には一部残っていましたが、なかなか砲台跡であることは分かりにくいです。
- 補助砲台は大口径の火砲砲台の補助として、敵艦艇の弱装甲部や、駆逐艦、潜水艦、水雷艇や上陸用舟艇などの小艦艇を撃ちました。位置は大口径火砲砲台の側方や、孤立させて設けました。備砲は発射速度が高く、長射程の口径7~15糎の加農を使いました。堡塁砲台とされた小原台、大浦、腰越の各砲台はこの補助砲台ともされます。
- 側防砲台は榴弾砲や加農でも撃ちにくい、あるいは撃てないといった死角に入った敵艦艇を撃つための砲台です。備砲は中小口径の加農でした。観音崎の第1、同2、同3はいずれも砲戦砲台であったのに第4は側防砲台の任務ももっていました。備砲は他が砲戦砲台だったので24糎加農、28糎榴弾砲であったことと異なって15糎加農4門、24糎臼砲4門でした。
今回も『明治期国土防衛史』(原剛、錦正社、2002年)、『日本築城史』(浄法寺朝美、原書房、1971年)から学ばせていただきました。(つづく)
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。