陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(23)青銅7珊野・山砲
□はじめに
少し、時代がさかのぼります。今度は野砲と山砲の歴史です。
列国陸軍が19世紀に戦場に持ち出した主要な火砲とは野砲と山砲です。野砲は2輪の砲架に載せて主に馬に牽かせました。道路ばかりか草地なども走り回り、陣地に進入すると同じく2輪の弾薬車を切り離します。
使った砲弾は主に榴霰弾でした。露出した敵の人馬に向かって、その上空15メートルほどで炸裂し、小さな弾子を浴びせるものでした。目に見える敵に向かって直接照準で撃ちました。だから種類で分ければ砲身の長い加農でした。通常の榴弾といわれる炸薬を中に充填した弾も用意されましたが、発射弾の多数を占めたのは榴霰弾です。
山砲は野砲と同じ弾を撃ちますが、分解して馬や人の背によって運ぶために軽量化してありました。砲身も軽いし、架台、閉鎖機なども軽量化しましたから、弾は同じでも装薬量が少なく射程も短くなっています。その代わり、馬が進めない地形でも行動できました。
▼イタリアから学んだ7珊砲
イタリア陸軍のポンペオ・グリッロ少佐がもたらしたものは青銅製の野・山砲でした。砲身の素材は銅と錫です。いずれも鉄に比べれば軟らかい素材ですが、配合の工夫で鋼鉄にそれほど劣らない性能を発揮しました。イタリア陸軍も採用していたのが青銅製の75ミリ野・山砲でした。
1880年代は最後の内戦だった西南戦争(1877年)もなんとか切り抜け、いよいよ外敵に備える軍備を充実させようとしていた時代です。ドイツのクルップ式野砲、ブロドエル式山砲を制式に採用するという流れもありましたが、兵器の国産化を主張する軍人も多くいました。現に小銃(歩兵銃・騎兵銃)は1880(明治13)年には村田式が採用されていたのです。
またわが国に近代造兵技術をもたらしたフランス陸軍のブリュネー大尉もイタリア式青銅砲を推す建白書を届けてきました。国産素材でなくては戦時の需要に追い付かないということです。幸い、わが国の銅の産出は順調に伸びています。
1881(明治14)年には、この青銅砲の採用を内定しました。活躍したのは砲兵大尉太田徳三郎でした。太田大尉はヨーロッパに向かうとイタリア、オーストリア、フランスの各国で技術情報収集に努め、イタリアでは工場労働者になりすまして研鑽を積んだ造兵技術将校です。
1889年には要塞砲兵幹部練習所長、翌年には大阪砲兵工廠提理(ていり・工廠長の職名)となり、1902(明治35)年には中将に進み予備役編入、04年日露戦争中に召集を受けて工兵監事務取扱という経歴です。当時は太田ばかりではなく、海外に学ぶことが多かった造船や造機の部門などでも現場の労働者になって学ぶ。そうした苦労をしてきた人が多かったようです。
純銅100に対して錫を9の割合で混ぜるのが普通でしたが、わが国では実験の結果、錫を11にすると最適であると決めました(『日本陸軍の火砲・野砲山砲』佐山二郎、2012年、光人社NF文庫)。
砲身は、素材に400トンの水圧機械で75ミリに満たない孔を開けたものです。これを圧搾銅(あっさくどう)、鋼成銅、あるいは鋼銅といいました。撃発、装薬に点火する仕組みは閉鎖機に火門(かもん)という孔を開けますが、ここが鋼に比べると軟らかく減りやすいので、純銅の火門軸を砲尾にねじ込んで、それに孔を開けました。
閉鎖機は水平鎖閂式(させんしき)です。一挙動で開けることができます。そこへ弾と薬嚢(やくのう)を押し込みました。薬嚢は布製の袋ですが白いフランネル製でした。絹や綿などの植物性繊維でつくると燃焼後に火屑が出ることもあったからです。
フランネルとは羊毛を紡いだもので、軟らかい素材でした。肌着などに使われることもありました。夏目漱石の小説『坊ちゃん』ではキザな教頭さんが赤い「ネル」のシャツを着ていると描かれています。
▼大阪砲兵工廠で生産を開始
全軍の野山砲を更新する。これは大変なことです。鎮台砲兵はそれまでの大隊から聯隊に大きくなりました。野砲2個大隊、山砲1個大隊の混合編制です。1885(明治18)年の「砲兵内務書」では次の通り規定されました。
2個中隊24門で1個野砲大隊、人員は本部の6名を入れて210名です。山砲大隊は2個中隊12門で人員も同じく210名、これに聯隊本部46名が加わり、676名が聯隊の定員でした。
1888(明治21)年に鎮台が師団になります。こうして近衛以下、第1から第6師団までの計7個師団で日清戦争を迎えます。各聯隊は野砲24門、山砲12門を装備しました。全軍では野砲168門、山砲84門となります。
これらを大阪砲兵工廠で製造するようになりました。このため作業機械の動力源となる蒸気機関の数と、それから発揮される馬力数も1883(明治16)年から比べると、86年には機関数で4台から10台、出力馬力数では97馬力から189馬力にほぼ倍増しています。生産数がどれほどかは資料が見つかりませんが、部隊配備の野山砲252門に加えて損耗への補給用、部隊での教育用、後備部隊への支給用等を考えると500門ほども生産したのではないでしょうか。
▼諸元や砲弾など
砲車は弾薬車や予備品車と4輪のトレーラーになって輓馬(ばんば)4頭でひきました。これを2駢(にべん)輓曳(ばんえい)といいます。駢とは馬が2列に並ぶという意味です。のちの野砲も同じですが、進行方向に向かって左を服馬(ふくば)といい馭兵が乗ります。右の馬は参馬(さんば)といい、馭兵が右手に持つ参馬鞭(べん)で操りました。改めて詳しく語りますが日本砲兵の弱点は馬の非力さでした。古くからわが国の在来馬は欧米の馬に比べて小柄で牽引力も小さかったのです。
放列砲車重量(砲架と砲身、車輪等の合計重量)は690キログラム。砲身だけでは298キログラム、前車(弾薬車)と連結すると全備重量は1270キログラムになりました。口径は7珊(サンチ)としましたが、実際は野砲の国際標準である75ミリです。
曳火射撃に使う榴霰弾は4250グラムの重さがあり、弾子(パチンコ玉を想像してください)が76個入っています。初速(発射されて砲口から出る時の速度)は428.6メートル、最大射程が3590メートルとされていました。
接近する敵歩兵や突進してくる騎兵に対しての自衛戦闘で使われる霰弾(さんだん)には弾子が126個も入っていました。砲架の中に2発の霰弾を入れる容器が造りつけになっています。この弾子は樹脂で固められていました。発射されると砲口からすぐに広がって飛び、いまの散弾銃のようなものです。
榴霰弾の弾体は筒のようになっています。指揮官が敵との距離を正確につかみ、目標上空の15メートルくらいで爆発するように曳火信管を切りました。初速が約毎秒400メートル、飛行中の平均同350メートルならば3500メートル先には10秒で届くわけです。こんなとき指揮官は10秒で信管を切ることを命じました。この7珊野山砲弾の火道信管は13秒で燃え尽きるのが最大になっていました。
信管よって着火された黒色火薬によって弾子は前下方に放射されます。距離、高度によって違いますが、おおよそ2000メートル前方で炸裂すると、幅20メートル、長さ100メートルあまりに弾子が飛ぶことになります。つまり箒で掃くように掃射(そうしゃ)されたわけです。
次回は榴霰弾に使われた複働(ふくどう)信管について調べてみましょう。
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。