陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(63)自衛隊砲兵史(9)70年代のロケット弾発射機

▼発射機と装填機

 30型ロケット弾発射機は懐かしい話題が多いので、もう一度詳しく語らせてください。技術研究本部が提携したのは、今はなくなったプリンス自動車株式会社でした。子供の頃にはトヨタ・クラウン、日産セドリック、プリンス・グロリアというのが「お金持ち」が走らせる高級車でした。

プリンスは1966(昭和41)年には日産に吸収合併されました。この頃のプリンス技術陣には亡父と同じく陸軍航空技術に関わった方が多く、亡父の上司だったS技術大尉もこのロケット計画に加わられたようです。

 発射機と装填機は1967年に仮制式となって「67式」になったことは前回、お話しました。ロケット弾の方は翌年に仮制式、68式といわれます。製作会社は、ロケット弾と発射制御器は日産自動車、発射機と装填機は日本製鋼所、地上風測定装置は明星電気の各社でした。発射機と装填機は改造型(B)が製作されました。

 車体部は、日野自動車の4トントラック、発射台はレール式の並ぶタイプです。これを双連(そうれん)といいました。射撃時には3個の油圧ジャッキで車体を支えます。車体傾斜5度までの範囲は修正できました。照準具は、パノラマ眼鏡(両端にレンズが付いた基線が長いタイプ)と托座(たくざ)を使う単式照準といわれたものです。

 1個中隊は6門単位で制御されました。発射制御機は電源車と導通試験器に接続され、6台の発射機にケーブル(1巻100メートル)でつながれます。1巻で短い時にはコネクターで延長できました。

 装填機は、発射機と同じく日野自動車の4トントラックで架台上に6発のロケット弾を積みます。発射台のレールには油圧クレーンで行ないました。1個中隊に2輌が装備されます。

▼ロケットの弾と旋転(せんてん)

 30型ロケット弾は、信管、弾頭部とモーター部に分かれます。4枚の固定翼が弾の尾部についています。弾体が旋転し、飛んでいる間の安定を行ないました。これを有翼旋動弾といいます。この旋転は弾頭部とメインモーターの間にあるスピンモーターによって得られました。このモーターは発射操作でメインモーターに点火する2.5秒前に点火され、弾体に毎分600回転の旋動を与えます。

 メインモーターは約2秒間の推進薬の燃焼で、弾体に毎秒790メートルの速度を実現させました。推進薬はダブルベース無煙火薬の管状薬を13本集めたもので総重量は190キログラムでした。弾頭部はTNT炸薬を入れた榴弾と演習弾です。信管は瞬発の着発信管を上部、無延期の下部信管を組み合わせていました。下部の信管は何らかの理由で上部信管が作動しなかった場合のためのものです。

▼75式130粍多連装ロケット弾発射機

 多連装ロケットはソ連軍の「カチューシャ砲」として有名な第2次大戦中に出現したロケット砲です。高い発射速度を誇り、10~20秒ほどの短時間で大集中火力が発揮できます。

 反面、砲身をもつ砲に対しては、射撃精度や継続的火力発揮能力では欠点があるというところです。無誘導のロケット弾ですから、当然、ピンポイントの射撃は望めず、発射機が空になれば、次発の装填には時間がかかります。しかし、なんといってもその破壊力は魅力であり、長射程もあいまって、1960年代の後半になると西側の各国でも競って開発が進められました。

 わが自衛隊もソ連軍の着上陸作戦を相手にすることを考えると、船団から上陸地までを一度に攻撃できるというメリットがあります。敵陣の縦深にわたって短時間に打撃を与えることができる、そういったことから装備を計画しました。各国の潮流では、おおよそ口径は110ミリから140ミリの20から40連装のものが主流になっていました。

 フランス軍のRAP-14などは専用のトラックなどはなく、油圧懸架の2輪トレーラーの上に22連装の発射機が搭載され、どんな軍用車両でも牽引できる射程30キロ、無誘導のロケットを装備しています。ソ連も射程9キロ、15キロ、18キロ、20キロといった各種のロケット砲をもっていました。
 

 陸自も1967(昭和42)年から本格的な開発に入ります。71年には全体試作が出来あがり、技術試験に引き続いて73年には実用試験が行なわれました。ジャイロコンパスの改善がされて74年に、その性能確認のための補備試験があり、翌75年には仮制式となります。

 製作に携わったのは、ロケット弾と発射筒が日産自動車、車体部は小松製作所、照準装置関係は東京計器、地上風測定装置は明星電気の各社でした。車体部は74式自走10センチ榴弾砲、73式装甲車と同じ4ZFエンジン(三菱製・空冷2サイクルジーゼル・300馬力)を搭載したファミリーです。発射筒は、4段箱型で上から7、8、7、8発でした。中央部には装填したロケット弾頭を保護する為に防弾鋼板で覆われていました。

 特色があったのは照準装置です。方向照準用に方位検知器、射角照準用に傾斜検知器を用い、照準諸元はすべてデジタル化していました。方位探知機はジャイロコンパスの一種です。これは航空機や船舶では以前から使われていましたが、陸上で装軌車輌に搭載して、照準装置に使うのは世界で初めてでした。

▼75式地上風測定装置とロケット

 この装置も発射機と同型の装甲車に搭載して自走化しています。これは4輌を指揮する小隊長車ともなるのです。ロケット弾は推進力があるときには横風を受けると風上方向に偏倚(へんき・かたよること)することをフォローウィンド効果といわれます。このロケットは横風風速毎秒1メートルで、方向上約10ミルの偏差を示しました。そこで地上風の影響を観測し、修正をかけなければなりません。この装置は30型ロケットで使われた地上設置型比べると、測定準備時間、測定時間が大きく短縮されました。

 130ミリのロケット弾は、30型と同じく有翼旋動弾でした。旋転はノズル部に半径方向と斜めに入っているスリット(切り欠け溝)に噴射ガスが吹きあたることで生まれます。約2秒間のモーター燃焼後で毎分約1200回転です。

 弾頭部は10センチ榴弾砲とほぼ同じ約15キログラム。炸薬率が大きいので威力は大きくなりました。信管は着発・無延期信管です。また、特殊信管といわれる電波の発射時期をコントロールできる近接信管、CVTといわれるものも使われました。自ら電波を発射して、地上や目標に到達する前に起爆します。

 北海道の第1特科団、その大隊に装備されていました。当時の北海道には、74式戦車や73式装甲車、この75式多連装ロケット発射機などの新装備がソ連への抑止力として期待されていたのです。

次回は意外と知られていない特科装備だったM2型107粍迫撃砲について調べましょう。(つづく)

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。