陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(62)自衛隊砲兵史(8)中期業務見積の作成


▼対ソ連戦への備え

 米ソ冷戦が先鋭化した1980年代後半でした。ソ連のアンドロポフ書記長、米国のレーガン大統領はことあるごとに互いを非難し合いました。一方、日米両国は「ロン・ヤス」関係といわれるような一体化、緊密化の時代でした。ヤスとは先年亡くなった中曽根康弘氏のことです。

 1980(昭和55)年からは84年までの5カ年の中期業務見積といわれる防衛装備取得計画が始まります。この時代の特徴は、「戦車の北転事業」に象徴される北方重視、対ソ連戦への備えでした。

 1988(昭和63)年、第7師団の各戦車連隊は、それまでの4個中隊編成から5個中隊編成に拡大されました。また北海道の4個師団のすべての普通科連隊のうち1個が装甲車化されます。さらに1991(平成3)年には、本州以南の各師団戦車大隊が縮小されました。

▼戦車の北転

 普通科連隊4個を基幹とする甲師団、同じく3個連隊をもつ乙師団の区別は説明しました。甲師団の戦車大隊は1個中隊が14輌、それが4個中隊に本部車輌で合計60輌でした。乙師団は同じく3個中隊と本部車輌で計46輌をもっていました。 

それを各1個中隊ずつ削減します。戦車も人員も北海道に転進します。北海道の各師団戦車大隊の中隊は18輌編成に増強されました。そのうえ、方面直轄部隊として第316~320の5個中隊を新編します。そうして316中隊は第2戦車大隊、317と318中隊は第11戦車大隊、319中隊は第5戦車大隊、320中隊は第1戦車群長の指揮下に入りました。

砲塔に戦前陸軍から受け継いだ「士魂」マークで有名な第11戦車大隊は、18輌編制の6個中隊に本部がついて戦車は合計112輌という勢力を誇ります。

同時に地対艦ミサイル連隊が3個、2個のMLRS大隊が第1特科団内に新編されました。地対艦ミサイルは山中に隠れて、巡航ミサイルを発射してソ連の上陸船団を狙います。MLRSは長射程のロケット発射機で、そのロケットはいわゆるクラスター弾頭をもっていました。これもソ連の上陸した機甲部隊に打撃を与えるための装備でした。

内地の各師団の「北方機動演習」も恒例化しました。74式戦車、73式装甲車、重MATなどの新装備はすべて北方の部隊から配備されます。空自もF15イーグル、F1対地支援戦闘機も北部航空方面隊に優先配備されました。

▼30型ロケットの開発

 ちょっと時計の針を戻して、陸自のロケットについてふり返りましょう。最初に開発されたのは67式30型ロケットでした。ロケットというのは無誘導、つまり精密に誘導されたミサイルと異なって、撃ちっぱなしの火砲です。第2次世界大戦では列国で装備されて、わが国でも「噴進砲」といわれて対空、対地の用途に使われました。

 陸上自衛隊でも、1955(昭和30)年には「誘導飛翔体」の調査研究が技術本部で始まります。国産化するか、ライセンス生産とするかの決定の前に基礎研究を積もうということです。翌年には技術本部第8部が発足し、火薬と小型液体ロケットの研究が始まります。

 陸上幕僚監部の装備計画委員会の結論は国産化でした。技本3部でも31年度から「200粍(ミリ)長射程ロケットの研究」という名称で開発が始まります。当時、アメリカ軍は「オネストジョン(正直者ジョン)」という対地ロケットを装備していて、その国産化を導入する意見もありました。しかし、議論の大勢は国産ロケットを採用しようというものでした。

 ロケットは発射機と弾体になります。長射程で大火力とするために、2連装、装輪自走とされました。弾は射程約30キロメートル、装填機は6発搭載の、やはり装輪自走になりました。

 34年度には口径50ミリ、220ミリのロケットが試作され、翌年度に330ミリのロケットが1次試作されます。37年度までにはロケット弾・発射機の3次試作にまで前進し、実用化に迫りますが、「演習場使用問題」が起きました。実用試験は1965(昭和40)~68年まで伸びてしまいます。

 もちろん、マスコミを始め、労組や学界といった「進歩勢力」の反対意見、妨害が大きかったのです。今からは想像もできないくらい、自衛隊の増強、装備改善には激しい反対運動がありました。ロケットは威力が大きすぎる、無誘導だから事故が起きる、とにかく感情的としか思えない反対があったのです。正しく世界情勢を認識せず、反米・親ソという人が多かったというのが事実でした。

 その後、発射機と装填機は1968(昭和43)年に制式制定されて67式30型ロケット発射機、67式ロケット装填機と正式に生産が始まります。ロケット弾は翌年に仮制式とされて68式30型ロケット榴弾、同演習弾が制定されました。ロケットは直径約307ミリ、弾長約4.5メートル、重量約573キログラム、有効射程は約25キロ以上となっていました。

 次回は75式130ミリ自走多連装ロケットについてふり返りましょう。

(つづく)

 

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。