陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(12)閉鎖機の工夫


□はじめに

 梅雨に入ったようです。5月中に宣言が出ると12年ぶりとかテレビでは言っています。また、激しい雨が予想されるとか。先日は久しぶりに富士山麓の御殿場市、駿河小山市にお邪魔して田植え前の美しい景色を楽しめました。梅雨あればこその米作の恵みですが、都市では災害につながると心配です。


▼建軍時代の世界の技術革新

 わが国がペリーの来航(1853年)で慌てていた頃、プロシャでも1850年から60年にかけての10年間で、施条砲を採用しようという気運が高まっていました。当然、ユーザーの砲兵将校たちの間では賛否両論、57年には比較射撃試験が行なわれます。その結果、6ポンドと12ポンドの野砲、24ポンドの要塞砲には腔内にライフリングされた施条砲を採用することになりました。

 弾も球形の実体弾を廃止し、長い榴弾を使うことにします。1866年の対オーストリア戦争ではプロシャの砲兵聯隊は16個中隊でした。そのうちおおよそ10個中隊が後装施条砲に更新されていたようです。残りは前装式滑腔砲だったといいます。

対してオーストリア軍はすべて施条砲でしたが、弾はいぼ付きの前装砲でした。当然、戦場ではプロシャ砲兵に対して発射速度が遅くなり、射程も劣り、命中精度も当然低くなりました。

このころ、のちに高名なクルップ社はどうしていたかというと、1856年頃には鋳鋼製の後装式施条砲を造りますが、政府からは評価されず、エジプトやロシアからの発注でどうやら生き延びている有様でした。

以上、以下、多くを小山弘健氏の『世界軍事技術史』から学びました。

▼閉鎖機構の発達

 後装式であるなら、その大きな課題は砲尾の閉鎖です。クルップは独自の工夫で、横鎖栓式、もしくは楔(きつ)状栓式といわれるものを使いました。尾栓の形が楔(くさび)型になっていて、前方は砲軸と直角に、後方はいくぶんかこれと傾斜した形になっていました。栓をきっちりと挿入すれば、その前面の砲腔の後端と密着します。この栓の端には腔(あな)があり、ハンドルと結合した螺旋(ネジ状になっている)を内蔵していて、ハンドル(転把)を回すと螺旋が砲尾の螺室とかみ合って栓が横に抜けるのを防ぎました。

 すでに1855年頃には英国人ブレークレーが、円形で横から見れば台形になるネジを利用した閉鎖機を開発します。ハンドルを3~4回まわせば尾栓が外れます。これを導桿(どうかん・引っ張り出す棒)で後ろに引き出しました。火縄銃の尾栓を大型にしたようなものです。続いて同じく英国のホイットワースが、尾栓と砲尾に螺旋をつけて、互いに食い合うようにした横栓式といわれた閉鎖器を発明します。欠点はいちいちネジを外して引き出すことでしょう。

 では、有名なアームストロング砲はどうだったのでしょうか。これは与圧式といわれたものでした。尾栓が薬室(砲腔の後部の装薬が入る部分)の入り口と密着するガス漏れ防止用の「環(リング)」を備えた垂直式のものです。この環は薬室の入口にぴったりはまる軟金属(黄銅など)などでできていました。

 尾栓は砲尾の上から落としこまれます。その後部は中空になったネジで支えられていました。それが2つの把手(ハンドル)で尾栓上の挿入口にはめ込まれて尾栓を固定させます。点火は尾栓の上に開いた火門孔(かもんこう)からされました。すぐに分かるのは、この尾栓を上方から落とし込む面倒さです。強度を考えたら軽い物ではいけません。アームストロングの閉鎖機は、改良がされるまではけっこう操作が面倒なものでした。

 また薩英戦争での事故の多くは、火門孔の部分がガス圧力で裂けてしまったことから起きました。わが国でもおそらく佐賀藩などで国産化されたアームストロング砲が実戦で使われたはずですが、そうした事故記録は見たことがありません。英国製に比べると、素材などに信頼性が低く、本物より火薬が少なかったのではないかと考えています。

▼フランス人ボーリューの断隔螺式(だんかくらしき)

 ボーリューはもっと簡単で堅牢な方法を発明しました。この技術が、のちに「速射砲」といわれる現代火砲の始まりの一挙動式を生みだしたのです。

 尾栓の外周と砲腔の後端の面を六等分しました。60度ずつです。尾栓の外周も、砲腔の後端面も3面の平滑(へいかつ・平らでなめらか)部と3面の螺糸(らし)部をもつようにします。砲弾と装薬を装|塡|し、閉鎖する時には尾栓の螺糸部を砲尾の平滑部に合わせます。その後に、これを60度回転させると、尾栓の螺糸が砲腔後端面の螺糸とかみ合って砲尾の閉鎖ができました。

 次回はわが国に輸入されたクルップ砲やフランス製の大型要塞砲の話です。(つづく)

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。