陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(57) 自衛隊砲兵史(3)保安隊から自衛隊へ
▼講和条約と保安隊
1951(昭和26)年9月、サンフランシスコ講和条約が締結されました。同時に、日米安全保障条約が結ばれ、その発効は翌52年4月になります。それに合わせて8月には海上警備隊と統合されて警察予備隊は保安隊となりました。
10月には北方特科団(砲兵旅団)と隷下の独立第1特科群が新編されて、同時にできた北部方面総監部(札幌市)の指揮下に入りました。まず、重火力は対ソ連ということです。53年4月には第2管区隊の担任地域から奥羽4県が外されます。第2管区隊は北部方面隊の主力部隊として北海道防衛に集中することになりました。
アメリカ軍の北海道からの撤収に合わせての力の空白を埋めようとしたのでしょう。保安隊の定員も3万5000人が増員され11万人体制になりました。6個独立野戦特科大隊も編成されます。8月末までに105ミリ、155ミリ榴弾砲40門が米軍から貸与されました。
▼特科学校の教育
米軍顧問団からの助言や援助を受けて教範類の翻訳も進みます。射撃指揮、測量、通信、車輌等の単科教育から各機能の総合化を図って、特別戦術課程、幹部基本課程、幹部高等課程などが整備され、教育を開始しました。
別科「英語」教育も行なわれます。留学準備教育の一環でした。1952(昭和27)年5月には、米本土の陸軍砲兵学校に留学する準備として英語教育が行なわれます。現在の習志野駐屯地は陸軍騎兵学校があった土地です。そこは米軍が接収し、キャンプ・パーマーとして使っていました。そこに施設も借り入れて学生教育が行なわれます。
現在では富士学校(静岡県駿東郡小山町)には富士教導団が本部を置き、その隷下に特科教導隊があります。この前身が特科学校配属中隊です。1952年1月の「学校の編成及び組織」によると、「学校隊は、学校隊本部、管理隊、診療隊及び配属部隊をもって編成する」とあります。学校編成表によると、配属部隊として第16中隊、次いで第15中隊とありました。ただし、この第15中隊は高射職種の部隊でした。
4月8日に第9中隊が生まれます。のちに1954(昭和29)年9月に、富士学校に移駐するまで第9中隊が「モデル部隊」として活躍しました。これが特科教導隊の起こりです。
▼第9中隊の編制と装備
ちょっとマニアックですが、せっかくの資料があります。中隊長、副中隊長、小隊長、班長、観測班長(3名)及び選定係幹部(のちに偵察測量幹部と改称)、砲班6個班、定員は124名でした。この副中隊長というのがアメリカ式です。日本陸軍には副指揮官はおかれていませんでした。
装備は特科学校に配属当時は拳銃とカービン銃だけだったそうです。カービン銃というのはアメリカ軍の7・62ミリ騎銃M1でした。軽量、2.5キログラムでガス利用式の半自動銃です。半というのは装填が自動であり、引き金を一発ずつ引かねばなりません。全長も903ミリで、銃身長が457ミリです。M1ガーランドと愛称されたM1小銃と比べると、威力は大きく劣るものの軽便さで指揮官用にもなりました。
拳銃は11・4ミリ(口径45)M1911A1といわれるものです。ブラウニングが設計し、コルト社で明治44(1911)年から生産された、実に息の長い銃でした。警察は米国供与のM1917・リボルバーから国産の新中央工業のニュー・ナンブ回転式拳銃に切り替えましたが、陸自はこの大きな全長218ミリ、銃身長128ミリ、重量弾倉付きで1キログラム以上ある自動拳銃を使い続けます。
この中隊は学校に移駐後、すぐに60ミリ迫撃砲、1952年3月と4月には81ミリ迫撃砲を9門、米軍から受領しました。野砲兵らしい105ミリ榴弾砲は同年7月、8月に4門を受け取りました。
60ミリ迫撃砲は1人でも運搬と射撃ができるという23キログラムの最軽量の火砲でした。砲身長は830ミリ、発射速度は毎分40発、最大射程は1800メートル、最小射程は200メートルです。初期の頃は、習志野では榴弾砲が射撃できず、弾着観測の訓練などに使ったといいます。
81ミリ迫撃砲は米軍のM29といわれたものです。これを改良したのが64式81ミリ迫撃砲で、供与当時はM29を使っています。砲身長は1294ミリ、62キログラムと重く、最大射程は3000メートルです。
最後に105ミリ榴弾砲、M2A1といいます。トラックで牽引し、全長は5900ミリ、砲身長は2360ミリ、重量は2300キログラム、発射速度は4発/30秒というものです。最大射程は1万1600メートル、有効範囲は30×20メートルです。この有効範囲というのは着弾して破片や爆風などの加害範囲のことをいいます。具体的には立姿の人員の50%がなんらかの被害を受けるということです。
次回は富士駐屯地への移駐と特科学校、第9中隊の改編などについて調べましょう。(つづく)
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。