陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(38)砲兵が全盛となった第1次世界大戦

▼陣地戦が始まる

 第1次世界大戦での塹壕戦は有名です。互いに迂回して敵の側背部をつこうと陣地を次々と左右に伸ばしていきます。これを延翼競争といいました。また陣地は強化され、機関銃を中心にした火器掩体(かきえんたい)や、永久構築の堡塁と比べれば、はるかに規模は小さいながら中掩蔽(ちゅうえんぺい)部が造られます。掩体や掩蔽部は屋根がついていますから、頭上で炸裂する榴霰弾の効果はほとんどあがりません。

もちろん、頑丈なコンクリート製の重掩蔽部もあり、敵の攻撃準備射撃中には守備兵はそこに隠れていました。砲撃が終わると、ただちに守備位置について敵歩兵の進撃に備えます。前進してくる歩兵は機関銃の餌食になりました。この防御施設を破るには大口径の重砲と準備弾薬が必要でした。

▼反省を生かしたフランス軍の大火力急襲

 1914年12月のシャンパーニュ会戦の失敗からフランス軍は大火力を集めることにしました。400門もの重砲を集めて、翌15年5月にアルトア・アラス戦線で20キロメートル正面の攻勢をかけます。これまでよりも短い4時間という準備射撃を行ないました。重砲榴弾の威力でドイツ軍陣地を短時間で破壊しての攻撃でした。

 当初、攻撃は成功します。しかし、前線突破には成功したものの軍団予備の前進が遅れ、ドイツ軍に対応する時間を与えてしまいました。なぜ、兵力の前進が遅れたのでしょうか。機関銃です。フランス軍の砲撃は大きな威力がありましたが、コンクリート製の建物や橋などの構造物の破壊が徹底しませんでした。その残骸の中に多くのドイツ兵が潜んでいました。臨時の機関銃掩体を造り抵抗をしたのです。

 そこでフランス軍は奇襲効果によって得るものよりも、徹底した重砲弾による破壊の効果の方が大きいと判断します。そうして同年の秋季攻勢では準備射撃を十分に行なうようになりました。

▼第2陣地帯と弾幕射撃

 対してドイツ軍は陣地がとことん破壊されたとの印象をもちました。そこで第一線の陣地の後方に、フランス軍砲兵の射程外、4キロから6キロの地域に第2線陣地を築くこととします。「敵歩兵の攻撃を妨害、あるいは撃退するには阻止弾幕射撃(そし・だんまく・しゃげき)である」、ドイツ軍総参謀長はそのように訓令しました。

 弾幕とは目標への精密な射撃(「点」目標)ではなく、地域を制圧する「面」への射撃です。予想される陣地前方の土地に敵歩兵の前進に合わせて弾着させます。これはたいへんな砲弾の準備が必要なわけです。ドイツ軍の解説によれば、これがうまく行かなかった場合というのは、あまりに塵烟(じんえん)が多く、あるいは電話線が切断されて通信がうまくいかなかった時だといいます。

 正確な測量と測地でできた敵の予想通過地点にグリッドを重ねて、その網の中に正確に砲弾を落下させました。だから正確な弾着観測と、射撃陣地への通報が重要だったのです。砲弾の炸裂で塵(ちり)や烟(けむり)で戦場が覆われてしまうと、正確な弾着観測ができなくなったからでした。砲兵は直接に目標を狙って撃たず、ただ命令のままに方位と角度を指示されるままに砲弾を送りだしていたのです。

▼反対斜面の効果

 1915年秋の英仏軍によるシャンパーニュ地方への攻勢は重砲1100門あまり、野砲3000門、迫撃砲530門による準備射撃によって始まります。3日間にわたって撃たれた砲弾はおよそ170万発です。フランス軍歩兵は徹底的に破壊された独軍第一線陣地を通り抜け、さらに前進を続け、後方の第二線陣地に迫る勢いでした。

 ところが、反対斜面陣地にひっかかり手間取っているうちにドイツ軍増援部隊が到着したために苦戦に陥ります。反対斜面とは前進する前に立ちはだかる斜面の稜線の向かい側です。斜面を苦労しながら登っていくと稜線に達します。そこから下り坂になる、そこに敵陣がある状況です。後方から砲撃で掩護しようとしても正確な距離も方向も分かりません。なにぶん、見えないのです。

 数で押し切る方法もありますが、このときもフランス軍の増援は遅れに遅れて、とうとう攻勢は頓挫(とんざ)してしまいます。この頃の砲弾による死傷率は78%にも達する勢いでした。「砲兵は略奪し歩兵は占領する」といった言葉はこの頃に生まれたと金子常規氏は書いています。前段は「砲兵は耕し」という言葉に代わることもありますが、いずれも戦場の中心火力は火砲だという意味でしょう。

▼海岸要塞は威力あり

 一方、要塞砲兵はどのような戦いをしたのでしょうか。建軍以来、高価なカノンや大型榴弾砲を内地の要塞に据えてきた方針は正しかったのか。おそらくわが国だけではなく、世界中の注目を集めていたのが特殊な海戦、動く艦船と地上の要塞砲の戦いです。

 装甲がどんどん厚くなり、大きな機関を積み高速化する軍艦。それに対して上空から落下させて甲板を直撃しようとする榴弾砲、直撃で舷側装甲を破壊しようとする加農、それらを擁するのが沿岸砲台、その集まりを海岸要塞といいました。

 欧州の西部戦線で戦いは膠着しています。そのさなかに英国は伝統的な戦略行動をとりました。大陸は大陸に任せて、英国海軍は敵の海外植民地や勢力圏を奪うというのです。これはナポレオンに欧州が席捲されたときも同じでした。英国海軍はフランスの植民地や物資の輸送路に大きな脅威を与え続けました。

 このときも英国の海軍大臣チャーチルが主張した行動がとられます。ロシア皇帝からは、ダーダネルス海峡を突破して黒海経由で軍需物資を送ってもらいたいと要請が出ていました。

 1915年1月から英国艦隊は海峡両側の陸岸要塞に攻勢をかけ始めます。2月下旬から約1カ月間、旧式戦艦20隻と巡洋艦5隻で海峡の突破(打通ともいいます)を図るための戦いを続けました。海岸にある要塞の砲台に艦砲射撃を浴びせたのです。

この頃の旧式戦艦とは、10年前の日露戦争当時の新型戦艦を考えればよいでしょう。排水量は1万2000トンから1万5000トン、主砲は30センチ砲が4門というところです。それにしてもさすがに大英帝国、旧式ながら戦艦を20隻もこうした作戦に投入できる、そのことが驚きでもあります。

 3月18日のことでした。35隻の大勢力で英国艦隊はマルモラ湾に突入します。1カ月間も巨弾を落とし続け、要塞砲にも大きな被害を与えたと信じていたのです。ところが、トルコ軍の砲台は一斉に猛射撃を始めます。動いている軍艦と地上に固定された要塞砲の対決です。当然、陸上から放つ砲弾はよく命中しました。軍艦には多くの命中弾が出ます。混乱の中で沿岸の機雷にふれる戦艦もあり、3隻も沈められ、同じく3隻が大破させられるという大損害を出しました。

 このとき、要塞側には口径36センチ以下の49門と多数の野砲があったといいます。要塞と艦隊の決戦は要塞砲の勝利となりました。このため、有名なガリポリ上陸作戦が企画されるようになります。(『兵器と戦術の世界史』)

(つづく)

 

 荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。