陸軍工兵から施設科へ(73)大虐殺説を信奉する人たちの論理 荒木肇
□はじめに
前号では信奉派、否定派と書きました。これは南京で30万人もの非戦闘員を主とした大虐殺を日本軍が行なったという主張を信奉するという意味です。いや、30万人は多すぎる20万人だろうという人も信奉派と呼ばせていただきます。
わたしは否定派です。まず、「まぼろし」であるという鈴木明氏の主張に、わたしは同意します。あったか、なかったか、その事実はなかなか追究しきれません。だから、あたかも見えたような、見えないような「まぼろし」であるという鈴木氏のご意見にまったく感服したのです。
ところが、当時の大学やマスコミなどの世間では、「まぼろし」は完全否定する態度だと断罪されました。まず、東京裁判の判決がある、中国人の確かな証言がある、外国人の証拠写真がある、ドイツ外交官の証言や記録がある、そういった「証拠」を挙げられて、虐殺があったことを受け入れるように圧力を受けたのです。
わたしは、聞き取り証言や当時の新聞記事、あるいは記憶や個人の日記などの扱いは非常に難しいと思っています。まず、証言は遠い過去のことを思い出し、事実と変えてしまうことがしばしばです。そうして、聞き取りをすれば、対象者はこちらの価値観や態度から迎合した方がいいか、あるいは欺いても構わないかなどと判断します。また、あまりに凄惨な事件に関わる記憶を無理やり掘り起こすことも避けた方が無難です。
新聞記事は今も同じですが、新聞社の経営上の編集方針があるのが常識でしょう。まだ、一部の勢力は「新聞記事を学校の授業で使おう」などという運動をしていますが、わたしはなんと恥知らずなのだろうと思っています。新聞記事は公正ではありません。勝手な使命感に思い上がった記者が、会社の方針に沿って事実を曲げて書くのが普通です。それが昔の時代ならなおさらでしょう。当時の新聞記事にこう書いてあった・・・というのは、その背景まで調べなければ史料にはならないのです。
記憶もあいまいであることは、自分のふだんを考えればすぐ分かります。特別な事件があったなら印象深いだろう、だから正確だなどというのも危ないです。個人の日記もまた、個人的な偏見があり、いつか公開をするものなら様々な加工がされます。
▼虐殺の証言者
本多勝一記者に家族の悲惨な最期を語ったのは、当時9歳だった姜さんでした(証言時は43歳)。この姜さんが聞いた話として語りました。2人の少尉が、上官にけしかけられて殺人ゲームを行なった、上官は約10キロの間に100人の中国人を先に殺したほうに賞を出そう・・・という話です。本多記者はこれを記事にしました。
「聞いた話」なのです。しかも、かなりの作り話であることは、上官が殺人ゲームをけしかけたという、普通の軍隊では考えられない事態であることから分かります。いや、日本軍はそうした堕落した、非人間的な軍隊だったと強弁する人もいるようですが、軍隊の常識からはとても考えられません。
実はどうも姜さんは、「半ばプロの語り部」として政府当局から派遣された人であるようです。そのことは現代史家の秦郁彦氏によって紹介されました。『人民中国』(政府のプロパガンダ冊子)1972年7月号に、「45キロの間に600人の中国人を(2人の少尉が)殺した」と発表しています。
こうした背景を知らずに、多くの日本人は日本軍の残虐さを、きちんと検証することもせず、ただ信じてしまったのです。疑ったり、信じなかったりする人は無知である、反省が足りない、本多さんのような優れた記者が書いたものを否定するのはおかしいなどと非難されました。
▼証拠写真のウソ
この本多記者の『中国の旅』には多くの残虐な日本軍の蛮行の証拠写真がつけられていました。前回にご紹介した「狩りだされた中国女性」の写真もその一部です。1997年にアイリス・チャンという中国系米国人のショッキングな本『レイプ・オブ・南京』が出されます。そこに掲載された写真は、多くが本多記者の『中国の旅』に載せられていたものでした(『南京事件<証拠写真を検証する>』東中野修道他、」草思社、2005年)。戦時中の国民政府が偽造したり、宣伝用に作ったりした「やらせ」写真ばかりです。
こうした証言のいい加減さや、事実を曲げた証拠写真にどのように信奉派は対応したでしょうか。笠原十九司氏は『南京事件論争史』(平凡社、2018年)の中で、次のように答えています。「南京大虐殺の歴史事実は、写真資料ではなく、膨大な文献資料、証言資料によって明らかにされてきたのであって、写真を証拠資料にして南京大虐殺が明らかにされたのではない」というのです。これが「ほら、こんなに写真があるではないか」と居丈高に吠えていた人、学者の言うことでした。どう考えても、自分の思い込みだけで生きている人としか言えません。
▼「自虐史観」は何が問題か?
「自虐史観」にひたると、歴史の登場人物を前玉・悪玉に分けて考える習慣が身につきます。過去の日本人は愚かだったと断罪すれば賢い気分にすぐなれます。悪玉はなぜ悪玉か、愚かだからです。なぜ過去の人は愚かと言えるか、それは今の自分に簡単に分かることが分からないからです。
アメリカとの国力の差は10対1くらいでした。当時だって、国民総生産の圧倒的な違いや、鉄鋼生産力の差はたいていの人が分かっていました。為政者だって、官僚だって、財閥系の大企業のサラリーマンも、何より軍人だって、みな知っていたのです。
では、なぜ、あんな「無謀な戦争」に向かって行ったのか? 大事なのは、なぜとどうしてでしょう。なぜアメリカの通牒、ハル・ノートを元に話し合えなかったのか。どうして中国から撤兵できなかったのか、アメリカから戦争資源を入手できなくなったのに、なぜ開戦に踏み切ったのか。
歴史の中の「時代相」、時代の様子を過不足なく説明できるようになるには、さまざまな角度からの検討が必要です。
30万人をどのように殺したのか。機関銃で撃ったなどという妄説もありますが、銃弾の致死命中率はどれくらいでしょうか。貴重な重機関銃、俘虜を殺すために弾をどれほど使えばいいのでしょう。また摩耗する機関銃の銃身交換も必要です。それを運ぶ駄馬はどれほどいたのでしょう。駄馬の馬糧や水はどのように確保したのでしょうか。
戦場で何より怖いのは疫病です。敵も味方も死体をそのままにはできません。亡骸を焼くにも場所と燃料が必要です。燃料はどのように調達したのでしょう。埋めるなら、どれほどの土工量が必要だったでしょうか。
そんなことを考えながら、わたしは南京の日本軍のことを考えてきました。(つづく)
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。