陸軍工兵から施設科へ(72)「正義派」の勇み足
はじめに
戦前のわが国陸軍が起こした最大規模の反乱事件、2・26事件(1936年)から87年も経ちました。その評価もさまざまです。そろそろ「歴史」となる時代となり、歴史学研究者にも、これまでの定説を打ち破る新しい解釈が欲しいと思います。
ただ、研究世界の方が、軍隊の起こした事実を追究するには、経済史や法制史などのアプローチばかりでは不十分です。歴史の事実、あるいは時代相を見るには、さまざまな角度から検証して、過不足ない説明ができることが必要と考えています。
ところが、多くの研究者にとって軍事や軍隊、さらには戦争そのものの科学的な探求は遠いものなのではないでしょうか。このことは歴史学のプロパーである東大史料編纂所の高名な教授も指摘されていますが、そうした研究は戦後ずっと挑む方はほぼいませんでした。
一つは実は戦前社会でも学界では軍事や軍隊についての研究はされていません。多くの研究者は徴兵検査を受けなかったり、事実上の兵役免除のようなシステムにのったりして軍隊そのものに関心を持ちませんでした。
それどころか、あの有名なエリートであった旧制高校生や大学生にとっては、軍人は馬鹿にすべき存在でした。アカデミズムの対象などにしなかったのです。その伝統は戦後の大学社会にも色濃く残りました。
もう一つは、軍隊のことなど研究しても、学界では地位を得られないという事実がありました。たとえ、研究しても、日本軍隊は帝国主義軍隊であり、侵略戦争の担い手だったという解釈をしない限り、決して国公立大学でポストを得られなかったのです。
それが今も尾を引いていて、防衛費の増額や自衛隊の装備向上などについても、事実を基にしないさまざまな論説がはびこる元ではないでしょうか。今日は、「南京事件」論争の中で、あるいは下火になってからも近・現代史学会の「学者」たちの犯したミスについて思い出したことをご紹介しましょう。
「アサヒグラフ」写真誤用事件
笠原十九司都留文科大学名誉教授は、1997(平成9)年に『南京事件』岩波新書)を出しました。その虐殺された人数は20万人(現在は30万人になっています)という数字を採用し、これでもか、これでもかと証言や記録を示し、世に大喝采を浴びました。
ところが、アメリカの大学の書庫にあった1枚の写真に誤ったキャプションをつけてしまいます。それは「日寇(にっこう)暴行実録」というタイトルが付いた宣伝写真集から採ったものでした。英文を素直に訳読して、「中国の平和な部落から狩りだされた女性たち、この後、強姦、輪姦されて銃殺された」と書きました。
その頃の読者の反響を見ると、「まさに日本兵は鬼畜だ」、「真実をよく表した写真だ」という賛辞だらけです。岩波ファンというか、反体制というか、いわゆる「自虐」がまだまだ「インテリ」たちの脳裏に濃かったことが分かります。中には、「日本兵の笑顔が許せない」という投書もありました。
おかしいだろうと指摘したのは現代史家の秦郁彦氏でした。これは1937(昭和12)年の「アサヒグラフ」2月号に載った、「解放した部落の女性を安全に農地に送り届ける日本兵」という写真だったのです。日本軍による宣伝写真ではありましょうが、周囲の兵士の「笑顔」も当然でしょう。
笠原氏はそれを認め、翌年には発行した新書を回収するという醜態を岩波書店は行ないました。もっとも、その扉写真は「日本軍に強姦された」という老女の顔写真に差し替えられました。氏は確かに秦氏に指摘を感謝し、関係者に謝罪しましたが、そういう安易な姿勢はどんなものでしょう。
もう一つ、興味深いことがあります。2018(平成30)年に刊行されている笠原先生の『南京事件論争史』の巻末にある経歴です。そこには1999(平成11)年には、笠原氏は南京師範大学(中国の高級教員養成大学)南京大虐殺研究センターの客員教授であったことが記載されていません。また、確か2000(平成12)年には南関大学の客員教授になられていたこともないのです。
自衛官などになったヤツはろくでなしばかりだ
藤原彰一橋大学名誉教授(1922~2003年)といえば、正規の陸軍現役将校だったことで有名でした。東京の府立中学から陸士予科、本科と進み、中国大陸の野戦を経験し、敗戦直前には内地にいた師団の歩兵聯隊大隊長でした。
この方は怒っていました。昔の陸軍の恥部、暗部を追究し、唯物史観にそった「優れた研究」を多く著しました。当時の若手研究者にも多くの影響を与えます。この方が、エッセイの中で、「日本の軍隊なんかどうしようもなかった。戦後になって予備隊、保安隊、自衛隊になったが、入隊したのは陸士(陸軍士官学校)同期の中でもロクデモナイ連中だ。だから自衛官もくだらない連中なんだ」と書いていました。わたしは、自分は立派な国立大学の先生なのに、ひどいことを言うなあと思ったものです。
研究者は自分の「方法論」から逃れられないと思います。わたしは方法論といいますが、要は個人的な生育歴や環境、経験によって形成された価値観だと考えています。藤原先生はまっとうに育って、陸士でも優秀で、勇戦されたのです。でも、それが裏切られた。だから日本軍と、それを生んだ日本社会を破壊したいと考えていたのでしょう。
先生は陸軍経験者だというので、軍隊や軍事について権威でした。1970年代でも先生が、「朝鮮戦争は韓国軍と米軍が計画的に攻め込んだ」と主張されると、影響下にあった研究者たちは反論せずに口を閉ざしました。
それが大失態をおかします。1984(昭和59)年のことでした。朝日新聞が大スクープを載せました。大陸の平野に広がる白い濛々たる煙です。「毒ガス使用の証拠写真だ」と記者はとくとくと書きました。それにお墨付きを出したのが「元陸軍将校藤原彰氏」でした。「日本軍の国際法違反の証拠である」と断言されたのです。
しかし、毒ガスなら重いので下に、横に広がってゆくはず。それなのに白煙がどんどん空に上がっていっています。自衛官も元軍人たちもすぐに「これは毒性のない煙幕だろう」と主張しました。結果、これも朝日新聞の負けになります。今では、多くの証言からその写真を掲載した背景の怪しさが明らかになっています。
また、当時の朝日新聞の部長が、事実をすっぱ抜いた産経新聞に乗り込んできました。そこで「お前のところなんかすぐに潰せるぞ」と脅迫したことも事実のようです。40年経ったら、潰れそうなのはどちらか・・・(笑)。
次回は、やはり「南京事件」のことを懐疑派、信奉派に分けてご紹介します。
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和五年(2023年)3月1日配信)