陸軍工兵から施設科へ(65) オリンピックの前後
いよいよ歳末
あと1週間で令和4年も終わります。来年は2023年ですから、話題にしている1964(昭和39)年から、ほぼ60年にもなろうとしています。人でいえば2世代です。新幹線の歴史も同じで、いまや東海道だけでなく山陽、東北、秋田、山形、北陸と国際標準軌間の列車が走っています。当時は、そんなことは少しも思いませんでした。
街を見ればタワーマンションといわれる超高層集団住宅が林立しています。東京の地下鉄網がこれほどになるとは、中学生だったわたしなど全く想像もしていませんでした。子供の頃の地下鉄といえば赤と白の塗り分けの丸の内線と黄色い銀座線だけだったのです。それが高校生(1960年代後半)の頃には千代田線、都営地下鉄三田線を使っていました。この頃は地下鉄の建設ラッシュだったのだとふり返っています。
降雪のことが話題になりますが、いまも残る記憶がサンパチ豪雪です。東京オリンピックの前年、1963(昭和38)年1月の雪害でした。日本海側の記録的大雪で「北陸地方豪雪非常対策本部」が政府内にできたくらいです。死者・行方不明者が97名、重軽傷者110名というものでした。列車が雪に埋もれてしまった映像も残っています。
自衛隊も救援に出動しました。いまも停電などで被害があり、多くの方が不便を感じておられるでしょう。お見舞いを申し上げます。
テレビで見たアメリカ
1960年代、アメリカは豊かでした。それはテレビで流されるアメリカ製のホームドラマで十分に見せつけられました。みなさん覚えておられますか。「パパは何でも知っている」、「うちのママは世界一」という素晴らしいリーダーシップを発揮する父親、優しくて美しい母親が登場しました。家の中には大きな電気冷蔵庫があり、食卓はいつも賑やかでした。広いリビングと数々の電化製品、そうして大きな自家用車がありました。
ではわが国ではどうだったのか。冷蔵庫は木製でした。リヤカーの上に載せられて覆いをかけられた氷塊を、配達してきたおじさんがノコギリで切りました。それを庫内の最上段に入れます。下降する冷気で下の食品などを冷やしました。もちろん製氷機能などなく、アイスなどはすぐに溶けてしまいました。
洗濯だって、ごしごしと木製の波のように刻みがついた板にこすりつけて洗います。ちゃぶ台に並んだ夕食には、味噌汁と漬物、そしてたいていが一品です。肉や魚の皿があって、野菜や豆の煮付けがあれば上等でした。
テレビの普及率をみてみましょう。1955(昭和30)年にはわずか1.5%でした。59年には13%となり、62年にはなんと79%にのぼりました。電気洗濯機も55年には4.6%だったのが62年には58.1%、冷蔵庫が同じく0.4%から同じく28%にいずれも急上昇していました。
「オリンピックをカラーで見よう」というキャッチコピーでカラーテレビの普及をメーカーが図ったのは1964年のことになります。
ちなみに白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫を「三種の神器(じんぎ)」といいました。この頃の大人は、「イザナギ景気」とか、「(天の)岩戸景気」とか、古事記や神話にまつわる言葉をよく使います。
皇位継承のシルシである「神器」を家庭電化製品の代名詞にする、現在から考えると国民の平均的知識の中身が違っていませんか。いまの若い人には皇位継承とか神器と言っても、知らないとか、聞いたことがないとか答えが返ってくる気がします。
所得倍増計画
岸信介内閣の後を継いだのは、大蔵大臣だった1950(昭和25)年に「貧乏人は麦を食え」といった失言で有名になった池田勇人氏(1899~1965年)です。もっとも、こうした新聞が広める言葉は、今も昔も「切り取り」であることは変わりません。とは言いながら、この話には当時の実態がかいまみえる気がします。
人には所得によってふさわしい暮らしぶりがあるのではないか、低所得の人は高価な白米ばかり食べずに麦飯を食べるとか工夫をされたいと要望した発言でした。それが翌日の新聞には先に書いた「貧乏人は麦を食え」と言ったとされたのです。まあ、本音はそうなのでしょうし、暮らしへの考え方として正しいのですが、それにしてもナマな言い方でした。というよりも、やはり「銀シャリ(つやつやと輝く炊き上げた白米)を腹一杯食べたい」という憧れがあったのが1950年代です。麦はやはり価格が安く、今のような健康食という受け止め方はありませんでした。
元々が大蔵官僚で財政にも詳しく、防衛費は抑える、国民生活を重視するという方針を示します。国民の所得をむこう10年で2倍にしてみせると池田さんは言いました。そして1961(昭和36)年には「農業基本法」を国会に提出します。農業の生産性を向上させ、農家の所得を他産業従事者のそれと格差を縮めていくというものでした。もうからない物は作るな、商品作物を増やせということです。農業に競争原理を持ち込んで、機械化も進めようということでした。
この頃、すでに米は余っていました。1961年10月には食糧庁は75万トンの米が翌年に持ち越されると発表します。農薬の使用が広がり収穫量も増え、7年間も豊作が続きました。国民にはパン食が広がっています。安くて美味しい「ヤミ米」が流通しています。配給米を辞退するといった人たちが増えました。戦争中にルーツをもつ「食糧管理法」はすでに実効性がなくなっていたのです。
この法律は戦時中の1942(昭和17)年に施行されました。米の供給が多すぎて値段が下がったら生産者(米農家)を守るために政府が介入する、具体的には収入の補助をしました。逆に需要が多く、供給が少なくなり米価が上がると賃金水準上昇を抑えるために行政的に米価を下げるようにする、そういった法でした。
戦後になると、誰もが「米穀通帳」というノートを持たされ、それを持ってお米屋さんに行って公定価格で買っていました。引っ越しをすると所定の手続きをして中身を更新します。それがいつの間にか暮らしの中から見えなくなりました。法の改正で廃止がされたのは1981(昭和56)年と記録されています。29年ぶりのことでした。
60年代の快進撃
1963(昭和38)年には大きな出来事が生まれました。国際通貨基金(IMF)から日本は「8条国」に移行するように勧告を受けます。世界で23番目の移行国になります。その時期は翌64年4月とされていました。国際収支の悪化を言い訳にした為替制限ができなくなります。また貿易制限も不可能になりました。OECDへの加盟も認められ、日本は保護されないように、つまり先進国に再び戻ることになったのです。
日銀の「国債統計比較」を見てみましょう。工業生産額はアメリカを100とみて58年には15.6でした。60年には20.5となり、第2次大戦の戦勝国だったイギリスの19.3、同じくフランスの20.3を超えました。63年には西ドイツの24.0をしのいで25.5となっています。あの豊かなアメリカの4分の1の工業生産額をあげていたのです。
東京オリンピックのおかげで競技場や選手用の宿泊施設、東海道新幹線、名神高速道路、首都高速道路、羽田空港モノレール、地下鉄などの関連工事などに投資は1兆200億円にものぼりました。通貨換算でざっと20倍としても、現在の20兆円あまりです。建築物の高さ制限であった31メートルも撤廃されて、東京にはホテル新築ブームが起きました。
60年代のわが国は年平均経済成長率は11%を記録します。実質個人消費も9%という伸びをみせ、同時に賃金上昇率はそれを上回ったので生活苦ということは起きません。消費者物価の上昇率も63年には7.9%でしたが、これを最高にしておおよそ6.2%前後でした。つまり物は値上がりするのが当たり前、その代わり給料は確実に増える、そういった社会だったのです。
これまでの好景気は大正時代の「世界大戦景気」でした。世界大戦は1914(大正3)年から18(大正7)年まででした。大正バブルとわたしは言っていますが、始まりはヨーロッパの混乱で起こった物流のマヒです。船舶需要が急増して、同時に日本製品が世界中に運ばれました。1910(明治43)年からの10年間でGNP(国民総生産)は4倍に膨らみます。これで日露戦争(1904~5年)を外債に依存して戦費をまかなった日本の経済は大きく立ちす直りました。す借金国から債務国に立場が変わります。
ところが、この記録はあっさりと破られました。60年のGNPは16兆円(ざっと現在の320兆円)だったのが70年には76兆円となったのです。ざっと5倍。街からは紙くずを拾ったり、ゴミを集めたりする古物回収業という「クズ屋さん」が姿を消しました。
そうして専業主婦という人たちが現われました。その話は新しい年からお送りします。ベトナム戦争が始まり、社会が変わる70年代も見直してみたいと思います。あの頃は、国防のことなど少しも考えず、ソビエトとの冷戦もアメリカに任せて言いたい放題だった時代です。
良いお年をお迎えください。
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)12月28日配信)