陸軍工兵から施設科へ(70) 中国に謝罪せよの時代
はじめに
いよいよ政府もコロナの危険度の指定を下げるようです。とうとう1000日以上の規制が多かった社会、少し元に戻れるようですね。それにしても中国武漢発の世界的な流行には驚かされました。
そうして今からおよそ半世紀前の70年代、80年代の「親中国ブーム」、あれは異常でした。今から思えば、ある立場の人たちはいよいよ自分たちの時代が来たと大張りきり。またそれに群がる人たちは、自分の思考を停止し、大勢に流れる時代でもありました。もちろん、そうした気分をあおって、大もうけしたのはマスコミでした。
近頃でこそ、テレビや新聞といった存在は、どんどんと力を失ってきました。それはそうですね、誰もが容易に情報を発信、受信できる時代になったのです。ウソの情報を流して多くの人を騙すことが難しくなりました。
そうしてマスコミの人士も昔のように「世の木鐸(ぼくたく・世の人を教え導く人)たらん」というような使命感や、ある種の高揚感をもって仕事をしにくくなったでしょう。もちろん新聞各社の社説やテレビの報道番組などを見ると、いまだに読者、視聴者よりも高い目線で書き、語る人もおられますが、見ていると断末魔のような気もします。
今回は当時の気分を少しでも知ることができるように努めます。
新聞記事と裁判
2人の幹部候補生出身の少尉が裁判を受けました。1947(昭和22)年12月のことでした。2人は南京軍事法廷で「多くの中国人の命を奪った」という罪で有罪となり、翌年1月に死刑は執行されました。戦時中の東京日日新聞の特派員による「百人斬り競争」という記事が証拠となったのです。
2人は11月30日の記事ですでに80人を斬ったという記事に登場し、12月13日には、106人対105人で競争は延長戦に入ったと再び記事に載りました。これが「戦闘行為」なら裁判にかけられる理由はありませんが、「戦闘間の行為」、捕虜や負傷者を虐殺したのではないかとされたのです。
「敵兵を鉄兜(てつかぶと)ごと真っ向唐竹割り(まっこうからたけわり)に切りつけた」と、新聞の特派員の記事(1937年12月13日付、東京日日新聞)にありました。これが事実なら大変なことです。鉄兜というのは正しい軍用語ではなく、ヘルメットのことでしょう。斬れるわけがありません。有名な作家で、自身も日本刀の修行者の津本陽氏も「明治兜割り」という小説で幕末の剣豪たちが兜に斬りつける演武を、明治になって行なったことを書いています。もちろん、兜に斬りこめたのはただ1人でした。
戦闘中に日本刀で出会いがしらの敵兵を斬ったという記事が出たとします。いまならウソに決まっているとすぐに大騒ぎ、それこそ炎上ものでしょう。
白兵戦はあったのか?
日本刀の性能や、あるいは実際の戦闘について、現在なら誰にでもすぐに調べることができます。では、その昭和12年の頃はどうだったのか。実戦経験者なら、あるいは軍人なら誰も信じなかっただろうと山本氏は主張しました。ただし、当時の一般読者は別です。チャンバラ映画でバッタバッタと捕り方や、悪い浪人者を斬り倒すといった日本刀神話になれていたから信じた人もいたでしょう。
では、さて実際に日本刀が活躍した、あるいは中国兵の青龍刀が日本兵を斬り倒したという事実は、中国での戦いであったのでしょうか。ちなみに銃器、火砲などを「火兵」といい、「白兵」とは刀槍、銃剣などを言いました。
わたしが町役場で見た兵事書類の1つに「戦死傷者に関わる通報」があります。役場の兵事掛に聯隊区司令部を経由して送られてきた書類です。叙勲や戦死一時金、あるいは戦傷に対する補償措置などが確定されるための重要な書類でした。
それによると、1937(昭和12)年の綴りに見られたのは、「迫撃砲の断片で負傷、後送され死亡」、「狙撃弾によって頭部貫通銃創で戦死」、「敵前で渡河中、軽機関銃の射撃で負傷」、「手榴弾の破片で下腿部に負傷、失血死」などとあり、一つも白兵創による負傷も戦死もなかったのです。
しかも戦場体験者に聞くと、「敵兵の姿は見たことがない」とか、「遠くでちらちら動くのは見たけれど」、「死んでいる敵兵は見た」とは語ってくれますが、白兵が届くような距離で中国兵を見たことはないとのことでした。
実際の戦闘
当時の中国軍はドイツの援助でチェッコ機銃といわれた7.92ミリの軽機関銃を多く装備していました。また、迫撃砲も多用しています。わが日本軍も、軽機関銃、擲弾筒、迫撃砲をもって火力戦闘を重視していました。
おそらく敵前1000メートルくらいから迫撃砲の射撃を受け始める。600メートルともなれば互いの軽機関銃の射撃です。日本軍には重機関銃中隊がありましたし、大砲もあったし、山砲という野砲と同じ砲弾を撃つ聯隊砲も活躍します。
地上から東京タワーを見上げてみます。だいたい330メートルですが、そのてっぺんに立つ人を見分けられるでしょうか。あるいはランドマークタワーのような高層ビルの地上30階とか40階の窓が見えますか。見えるでしょうが、そこに動く人影を確認するのはなかなか難しい。だから、日本軍は歩兵の小銃射撃はさせない、軽機関銃が敵兵のいるらしい所を掃射する、そういった戦いが普通だったと思えます。
白兵で渡り合ったというのは、ほとんどなかったと言っていい。ただし、ほとんどですから、ほんとうに偶然、起きたことはあったと思います。また、ごく特異体質の人がして、接近した敵に進んで刀や銃剣を向けた人がいただろうことも否定しきれません。ただ、白兵戦そのものはなかったと言っていいと思います。
大隊副官と歩兵砲小隊長
さて、軍隊の仕組みについて知られなくなりました。また、戦時中でも、当時の人はやはり軍隊のことは詳しくなかったのです。山本氏は2人の少尉が戦後の中国側の裁判で死刑になったときの証拠とされた毎日新聞の記事のでたらめさ、それを事実のように書いた本多氏を非難しました。
大隊副官が大隊長から離れて、勝手に戦闘などしただろうか。また大隊砲小隊長が砲の指揮をしないで、勝手に軍刀を握って敵陣に突入するかどうか。
大隊副官というのは大隊長の秘書です。大隊には(聯隊にも)参謀がおりません。スタッフといえば、情報掛、瓦斯(ガス)掛、兵器掛、補給掛といったような専門幕僚はいます。その1人が副官です。直属の戦闘員はもちません。
またもう1人の少尉は大隊砲小隊長でした。大隊には2門のかわいい大砲がありました。曲射(カーブを描いて飛ぶ)、直射(まっすぐ狙ったところへ飛ぶ)の両方をこなせる大隊長直属の小型砲です。当然、勝手に部署を離れて白兵戦に参加などするはずがありません。
そうしたことから山本氏は日本刀の実態と合わせて、「殺人ゲーム」というおぞましいタイトルを付け、明確な事実として「中国の旅」に掲載した本多氏を非難したのです。
この100人斬り殺人ゲームは大反響でした。日本兵の残虐さ、民間人への暴行、非人間的な行動などがすべて事実とみなされました。社会全体で「中国人に謝罪しよう」という気分が大盛り上がりになったのです。
当時も今も、日教組には一定の数の跳ね上がりはおりまして、授業でこの記事を取り上げ、子供たちに「昔の人は悪魔だった」などと感想文を書かせた人もたくさんいました。その手紙をご丁寧に中国大使館に持参する人までいたのですから、想像もできない時代ですね。
次回は本多、浅海(東京日日新聞、毎日新聞)両記者の反論をご紹介します。もっとも、半世紀前のわが国です。世間をあげての日中友好時代、毛沢東立派という気分です。吐き気がします。
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和五年(2023年)2月15日配信)