陸軍工兵から施設科へ(9) 徴兵制度(2)

はじめに・お礼

 Uさま、そしてKさま、いつもご愛読ありがとうございます。昔の徴兵制度の実態については、ほとんど正確に知られていません。
 その理由の第一に挙げられるのは、役場にいた兵事掛(へいじかかり)が、戦後になって非難を受けることが多く、書類を処分し、口をつぐんだことによります。
 第二に考えられるのが、1937(昭和12)年以降の大動員の経験者が圧倒的に多かったことです。おぞましい経験、軍隊に入れられるばかりの体験者でした。その大多数の人にとっては、目の前の事態ばかりが事実になり、冷静にふり返ることもしなかったのです。
 さて、徴兵令の改正は何度も行なわれました。最初の徴兵令は、社会科の教科書にも載る、1873(明治6)年1月10日のものです。ただし、いわゆる免役制の対象者が多く、代人料といわれる金を納めれば常備役も後備役も縁がなくなるという不公平な制度もありました。

徴兵令の改正

 初めて改正されたのは明治12(1879)年10月27日でした。予備軍への登録が2年から3年に、後備軍が同じく2年から4年に増えました。西南戦争で、動員しようにも数が少なかったからでしょう。
 続いての改正は1883(明治16)年12月28日です。予備役も、後備役もそれぞれ1年間が増えて、4年と5年になりました。現役の3年の後ですから、満32歳まで軍隊と縁が切れなくなりました。このとき、代人料は廃止され、猶予を与えることになります。また、小学校を除く、官立府県立学校の卒業証書をもつ者は、経費を自弁して衛生卒になる「一年志願兵」制度ができました。

兵役法につながる明治の改正

 そうして、最も大きな改正は1889(明治22)年1月22日のものです。これが細かい改正を行なわれていって、1927(昭和2)年の「兵役法」につながりました。この明治22年の改正は、鎮台から師団へ編制が変えられることと関係があります。
また、中等学校以上の学校の卒業生は、志願し、試験に合格すれば「一年志願兵」になりました。これは、予備役幹部の養成のためで、経費を自弁することが条件になります。食糧費や弾薬費、被服費、乗馬部隊なら馬の馬糧までも精算しました。貧しい家の人にはどうにも手が届かないものです。予備2年、後備5年で、現役と合わせて8年間でした。17歳から26歳までという年齢制限もありました。
また、「六週間現役兵」という制度ができます。17~26歳で、官立公立の師範学校卒業生で、小学校の教員は六週間の現役を終えれば、すぐに国民兵役に編入されました。これは、官公立の師範学校は全寮制で銃も貸与され、軍事訓練を受けていたからでした。また、国民軍は戦時になっても、まず編成されることはなかったのです。義務教育の正規教員たちは、厚く保護するといった政策でした。

日清・日露戦争と改正

この後、1895(明治28)年3月13日には、予備役が陸軍では4年4カ月に延びました。また、戦時に召集対象になる第一補充兵役は7年4カ月に、第二補充兵役は1年4カ月になります。そうして後備役が終わった者、第一補充兵役を終えた者が編入される、第一国民兵役と、それ以外の者の第二国民兵役を分けました。
日露戦争(1904~5)年の改正は、陸軍後備役が10年に延びました。また補充兵役には第一と第二の区別がなくなり、合計12年4カ月になります。
 大正時代には1918(大正7)年3月30日に、兵役に就けない者を、「重罪ノ刑」とあったものを「六年ノ懲役・禁錮以上」と定められます。兵役は公権であり、名誉という建前から刑を受けた者には兵士になる権利もないということです。
 師範学校を出た小学校教員は六週間という制度を止めて、「一箇年現役兵」となりました。20歳未満で師範を卒業すれば直ちに入営、20歳以上で在校し、23歳未満で卒業予定の者は卒業まで入営を延期します。また、予備役幹部の養成をねらった「一年志願兵」は、在学し、卒業する学校の種類に応じた入営を延期しました。
 そうして、1927(昭和2)年4月1日の「兵役法」の施行に続きます。

「壮丁名簿」の作成

 さて、陸軍官衙の中には「聯隊区司令部」というものがあった。師団がもつ管区の中を4つに区切っていた。司令官は陸軍大佐である。徴兵検査、在郷軍人の動静把握と援護、国防意識の普及、動員事務などを管轄する。師団はふつう4つの歩兵聯隊でなるから、四国などはとても分かりやすい。四国全体が善通寺に司令部を置く第11師団の管区になる。そこで、高知1県は高知聯隊区となり、高知県に本籍がある壮丁(そうてい・徴兵検査受検者)で合格し、歩兵になった者は歩兵第44聯隊、同じく徳島県民は歩兵第62聯隊に入営した。
 いったいどこの師管から、どれほどの兵科の若者を入営させるかというのは、陸軍省からおりてくる。そうして6月に検査を受けるのは、前年の12月1日から、その年の11月30日までに生まれた男子である。そうして検査に合格した者が、その年の12月1日に入営する。
 ただし、その青年の戸主(戦前の民法で決められた家族の長)は前年のうちに市町村役場の兵事掛に届を出すことになる。もちろん、陸軍士官学校に在学中であるとか、海軍志願兵で兵籍に入っているなども届けなければならない。また、徴兵検査を受ける猶予がある学校の在学生も同じである。

大正6年度の員数表

 大正6(1917)年度といえば、朝鮮併合(1910年)から宿願の2個師団増設のかたがついた時である。近衛師団を含めて、合計21個師団の平時のピークを表している。
 
 まず、現役兵である。歩兵約7万6000、騎兵4400、砲兵8700、工兵4900、輜重兵1900、輜重輸卒1万6000、縫工(ほうこう)卒60、靴工卒60で、合計が約11万人。補充兵は約16万人。合計で約27万人である。
 輜重輸卒は現役兵でも、当時は入営して3カ月で帰休となった。補充兵もまた、教育召集を受けても3カ月である。縫工卒や靴工卒は、被服廠などで勤務する経理部の兵で、聯隊や他の部隊で勤務する「特業」とは異なっている。
 こうした者が選ばれた、甲乙丙丁戊とはどうか。現役兵は当然、甲種であった。もう少し細かい数字がある。大正7年度は、現役兵11万4145名、補充兵17万1204名、合計28万5349名。受検人員は50万8149名だから、4~5人に1人が入営するという勘定になる。ただ、この6、7年度は2個師団の増設や、その他部隊の改編などがあって、大きかったようである。
 およそ1933(昭和8)年頃までは、5~6人に1人の割合で入営した。甲種合格は現役兵、もしくは補充兵にということでもあり、壮丁の4割は甲種、ついで乙種も4割、不合格の丙種は1割、翌年の再検査の戊(ぼ)は若干という比率だったようだ。ただし、地域による差も大きかった。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和二年(2020年)12月9日配信)