特別紹介 防衛省の秘蔵映像(3)

ご挨拶

 建国記念の日も穏やかに過ぎました。東京都をはじめ、多くの府県では罹患者の方々も減りつつあります。とはいえ、油断できないのが医療体制。従事者の方々のご苦労もしのばれます。また、この夏のオリンピック・パラリンピック開催に向けて、いまも尽力されておられる方々もお疲れ様です。
 そこへひと騒動起きました。森喜朗組織委員長の辞任です。しかも、後任についてもドタバタとしか言えない様子になりました。マスコミの力はまだ大きいと思わされ、またネット社会での匿名の森会長攻撃もすごいものでした。
 それで思い出したのが、1960(昭和35)年の、日米安全保障条約改定の騒ぎです。あのときも新聞各紙、ラジオ、テレビの報道はまさに狂乱状態でした。なにぶん、安保阻止国民会議という、今から思えば怪しい団体がありました。
 社会党、共産党、日本労働組合総評議会(総評)、全日本学生自治会総連合(全学連)、日中国交回復国民会議などがこの「国民会議」の中心でした。学者・知識人などによる「安保問題研究会」、文化人・芸術家による「安保批判の会」などもマスコミを使って、反米、岸信介(きし・のぶすけ)内閣打倒に向けた活動を熱心に行なっていました。

さらっと語る35年版の映像記録

6月15日には、全国的大衆闘争の日といわれ、職場大会、ストライキ、デモなどに580万人もの人が参加したそうです。わたしは小学校3年生でした。父に手を引かれて、日比谷(国会にかなり近い)の和田倉門のすぐそばまで行きました。人のうねりがどこまでも、どこまでも続いていたことを覚えています。
次の記憶は通っていた小学校です。学校で流行ったのは、「安保ハンタイ!安保ハンタイ!岸を倒せ!」とテレビで見たスクラムを組んでのジグザグ・デモでした。子供はすぐに真似するものです。先生たちも特に叱ることもなく、止められた覚えはありません。
騒ぎの中で、学生の一部と活動家たちが国会に乱入しました。警察の機動隊がそれを排除します。その混乱の中で一人の女子学生が亡くなりました。「権力によって殺された」とマスコミや運動団体は主張し、多くの人がそう信じましたが、その真相はいまだにうやむやのままです。そうしたことにはほとんど触れずに、この年の防衛庁映像は作られています。

安保改定騒動の裏側

この条約の改定は、なんとか独立国家らしくなろうという自民党によって計画されました。10年前に占領が終わり、独立が許されたとき結ばれた安全保障条約は、あまりにアメリカにおんぶに抱っこでした。軍事力は持たない、攻撃されたらアメリカ軍が守ってくれる。アメリカが襲われても日本は何もしない・・・という不平等なものでした。
このままでは独立国とは言えない。そうした気持ちから政権与党(自民党)は新しい安全保障条約を結ぼうとしたのです。そして、大きな駐留軍関係経費も問題でした。
一方、共産主義国家や社会主義国家への憧れを強くもつ人々もいました。あるいは労働者の中には本気で革命を起こそうと思っている人たちもいたのです。「防衛大学校生は同世代の恥だ」と公言する高名な若手文学者もいましたし、「警察官は権力のイヌだ」と書きたてる新聞記者や、言葉にするテレビの解説者もいました。街を歩く自衛官に「税金泥棒」と罵り、抵抗されないことをいいことに暴力までふるう人もいたのです。
それを煽るマスコミ人も、理論的な指導者にまつりあげられたがる学者や評論家もおりました。芸術家や学者の多くは親中国、親ソビエト連邦であり、中には北朝鮮を理想国家のように言う人もおりました。巧みな情報統制や操作に騙されていたのです。
しかし、反政府運動は、国会突入をきっかけにマスコミの手のひら返しに裏切られます。朝日新聞をはじめとして各社は「暴力はいけない。議会制民主政治を守れ」という論陣を張りました。6月19日の国会では自然承認があり、23日には条約批准書が交換されて、新安保条約が発効すると、とたんに激しい行動は終息してしまいます。後から聞くと、「いや、安保条約の中身なんて読んだことはなかった。ただ、岸と自民党のやり口が気に入らなかった」という人が多かったことに驚きました。
 多くの人は、アメリカに出て行ってもらって、ソ連や中国と仲良くして、非武装でやってゆく。それは、やっぱり無理だということを知っていたのです。この後、11月の総選挙では自民党は296議席を取りました。社会党は145議席です。選挙前には40議席だった民社党は17議席しか取れずに惨敗でした。
自民党対社会党という2大政党政治の始まりです。同時に、この安保条約でわが国は防衛経費負担を著しく少なくできました。それも大きな理由の1つとして、わが国はこれ以後、高度経済成長を遂げていったのです。

防衛庁の移転、陸自の方面隊

 この1960(昭和35)年1月、防衛庁は新しい庁舎に移転します。地下鉄日比谷線の六本木駅から徒歩3分の桧町(ひのきちょう)駐屯地でした。今はもうヒルズが建って超近代的な街並みです。昔の面影はありません。そこは江戸時代には大名家の下屋敷があり、明治からは歩兵第1聯隊の兵営がありました。道を隔てたところには歩兵第3聯隊の兵営があり、赤坂の1聯隊、麻布の3聯隊と通称されていました。この桧町の駐屯地が市ヶ谷に移転するのは2000(平成12)年秋のことでした。
 映像はこの年、方面隊体制を築いたことが描かれています。北方、東北方、東方、中方そして西方の5個方面隊ができました。それぞれの主力となるのはナンバーのついた管区隊です。方面隊司令部は方面総監部といわれ、映像には東方総監部の創設を記念して市ヶ谷(現防衛省)駐屯地の中で観閲行進をする特車部隊(M24)が観られます。
https://www.youtube.com/watch?v=-uP1D6Fb6o8

新中特車(61式戦車)

 4月7日には、神奈川県川崎市の三菱日本重工(後三菱重工)下丸子工場で、「中特車」の発表会が開かれています。ナレーションには「口径90ミリ砲を装備し・・・」という言葉が流れます。戦後10年以上もの技術的空白期を乗り越えて、国産戦車が誕生したのです。もっとも、朝鮮戦争以来の米軍戦車、供与された戦車の整備などで、まったくのゼロとは言えません。
 国産戦車が欲しい、そうした声は1953(昭和28)年には、当時の第1幕僚監部(のちの陸上幕僚監部)からすでに35トン、90ミリ砲装備の戦車の要求が出ていたとのことです。供与されたM4中戦車は33.6トン、52口径76ミリ砲装備でした。
 1951(昭和26)年からの朝鮮戦争では、米軍のM4中戦車の76ミリ砲では、北朝鮮軍のT34/85に対抗できませんでした。そこでT34の85ミリ砲に勝る90ミリ砲がどうしても必要だと思われました。そこで当時の米軍のM47、48は90ミリ砲であり、西欧列国のスタンダードである90ミリ砲でなければならないとされます。
また、国土防衛用としては鉄道輸送の必要があり、車幅の制限があります。1067ミリの狭軌の路線網があった国鉄も、他の私鉄もトンネルやホーム、鉄橋などの規格が小さく、幅の大きな戦車は造れません。安全限界といわれる規制がありました。
 米軍の90ミリ砲を搭載するM47、M48戦車は車内の容積も大きすぎました。体格の良かった米兵に合わせた規格が自衛官には大きすぎ、操縦席から操向レバーやペダルに足が届きにくいなどということもあったといいます。
 基本設計は防衛庁技術研究本部、車体関係は三菱重工、砲塔関係は日本製鋼が受け持ちました。第1次試作はSTA-1と同2の2輌が造られ、1957(昭和32)年までに完成します。1は車高をとことん低くすることを狙い、2はオーソドックスな形でまとめられました。1はクローラー(キャタピラー)の下部を支える転輪が7つになっています。車高を抑えるために全長が長くなりました。
2には車高が高くなったものの、旋回性能が良くなったという長所があったそうです。第2次試作は1958年12月に仕様が決まります。STA-3と同4が納入されたのは35年3月でした。この3と4は、砲口にある排煙器(ボア・エバキュレータ)が丸いシングル・バッフル型からT字型に変えられたことです。砲口の左右に煙を飛ばし、砲手の照準を容易にすることができました。生産型はこの2次試作車を改修し、73(昭和48)年まで560輌が生産され、主力戦車として活躍します。映像には水壕を越える雄姿が映っています。
61式は、いまの戦車から見ると幅が狭く、背が高く見えます。それは車体の最大幅が2950ミリ、全高が3120ミリもあるからです。大東亜戦争中に、日本兵が「敵は2階建ての戦車で来た」と表現したM4(供与されたM4A3E8で全高2980ミリ)よりも140ミリも高かったのでした。これはM4の幅が2990ミリで61式よりも40ミリも小さいことが加わったためでしょう。
ちなみに、帝国陸軍の97式中戦車の全高は47ミリの砲を積んだタイプで2380ミリ、幅は2330ミリでありました。

海自の「てるづき」、潜水艦「おやしお」とネプチューン

 「てるづき」はアメリカ軍の域外調達として発注され、完成と同時に貸与(のち供与)された国産大型護衛艦でした。31年度の予算建造警備艦は前回に紹介した「むらさめ」、「ゆうだち」とこの35年に竣工した「あきづき」と「てるづき」です。ネームシップとなる「あきづき」は就役直後から、また他の艦も警備艦から「護衛艦」へと名称が変更されました。
 「てるづき」は自衛艦隊(戦前の実動部隊である聯合艦隊に相当する)の旗艦を務めることになります。対潜水艦用の「あやなみ」型と対空戦重視の「むらさめ」型の両者を合わせたような汎用護衛艦です。
ただし、司令部設備をもっていました。司令部要員のための容積が確保されました。大型化し基準排水量が初めて2000トンを超えました。貸与艦なのでアメリカ海軍の艦番号もついています。護衛艦としての「あきづき」はDD161、「てるづき」はDD162、米海軍の番号はそれぞれDD960とDD961になっています。
 
 戦後初の国産潜水艦「おやしお」も6月30日に竣工しています。それまで海上自衛隊は米海軍から供与された米軍潜水艦(1943年竣工したミンゴ)だけを保有していました。護衛艦などの対潜水艦訓練の標的になったり、乗員の救助訓練などに使われたりしていたのです。
 それが戦後初の設計、建造で国産潜水艦が生まれました。もちろん、相手はソ連の潜水艦です。水中での高速発揮を実現し、ジーゼルで水上を進み時速13ノット(約24キロ)、水中は電動機で時速19ノット(約35キロ)の高速航走をしました。水中にいながらも空気取り入れ装置(シュノーケル)を使ってジーゼル機関で進むこともできました。戦前海軍の優れた技術であった自動懸吊(けんちょう)装置、自動深度保持装置を継承しています。規準排水量は1130トンです。この後、海自は水中標的になるために小型潜水艦の建造を進めます。
 また、当時の主力対潜哨戒機であるロッキードP2V-7ネプチューンも背景に登場します。当初の供与機16機に続いて59年からライセンス国産機が配備されます。以後、65年までに国産機は48機にもなって、グラマン・アベンジャーTBM(20機供与)、ロッキードPV-2ハープーン(16機供与)の老朽化と退役の穴を埋めました。
 第2次大戦中に開発された世界最初の陸上基地から発進する洋上哨戒の専用機です。レーダー、MAD(磁気探知装置)をもっています。全幅31.65メートル、全長27.94メートル、自重が22.6トンといった堂々たる大型機です。対潜水艦魚雷や爆弾、ロケット弾などをもちました。

F86Fセイバーの曲技飛行

 5機による編隊アクロバット飛行が紹介されます。9月18日、「航空50周年」、つまり日本で初めてアンリ・ファルマン機で徳川大尉が飛んだ年から半世紀。それを祝って羽田空港で機材の展示や、アクロバット飛行が行なわれます。多くの観客は、その妙技にみとれて喝采しています。のちにブルー・インパルスになるチームでしょうか。
(あらき・はじめ)
(令和三年(2021年)2月17日配信)