特別紹介 防衛省の秘蔵映像(4) 防衛2法と第2次防衛計画―昭和36(1961)年防衛庁記録―

ご挨拶

 昭和30年代後半(1955年~)はめまぐるしい時代でした。ほとんど毎日が「建設」の日々だと言っていいでしょう。これから昭和50年代半ばころ(1980年)まで、わが国社会は平和を謳歌し、高度経済成長の恵みを受けて明るく豊かな毎日を送ります。
 明るいはずです。1957(昭和32)年に成立した岸信介内閣(例の安保闘争で「倒され」ましたが)の長期経済計画によれば、62年までの5年間で経済成長率の目標を年平均6.5%としました。これは岸に代わった池田勇人内閣が60年に発表した「所得倍増計画」のはしりとなりましたが、実は計画を大きく上回り、平均10.1%を達成します。
 1950年代後半は外国からの技術導入と設備投資が活発に行なわれた時代でした。1962年までに導入された外国技術は約900件、そのほとんど6割くらいはアメリカからのものです。おかげで重化学工業は大きく発展しました。
1955年の設備投資額が約180億円にしか過ぎなかった鉄鋼業は、61年には約2800億円と15倍にもなります。化学工業は55年の約470億円が61年には同2500億円で5倍にもなっていました。
「神武景気(じんむけいき)」などという言葉はすっかり死語になりましたが、当時は神武天皇以来、初めての経済的な豊かさ、成長ということでいわれた言葉です。もっとも、57年夏から58年夏にかけて、一時的な「鍋底(なべぞこ)景気」などという不況状態もありました。
しかし、翌59年から景気は再び回復し、神武天皇よりもっとスケールが大きいということから「岩戸(いわと)景気」とマスコミによって名付けられました。古事記に残る「天岩戸(あまのいわと)」が命名の由来でした。

モータリゼーションの始まり

 1957(昭和32)年から国産乗用車の発表が始まりました。スカイライン(プリンス)、コロナ(トヨタ)、58年にはスバル360(富士重工)、ダットサン211(日産)、59年にはブルーバード(日産)。値段はけっこう高く、65万円から93万円と平均的な勤め人の年収の2倍くらいでした。ざっと現在感覚では、1000万円くらいの感覚でしょうか。
 それが60年になると、30万円のマツダR360クーペ、39万円の三菱500と年収とほぼ同じの価格の車が出てきます。ちなみに360とか500というのはエンジンの排気量(CC)のことです。もちろん、1000CCクラスのブルーバードやコロナとは車体の大きさも違いました。61年にはトヨタもパブリカ(パブリック・カーからの造語とか)を発表して38万円で売り出します。
国産小型乗用車(5ナンバー)は58年には年間生産台数は9万台から61年には29万台、62年には44万台になりました。懐かしいオート3輪を覚えておられるでしょうか。わたしの身近にはマツダ製の開放的な運転台、またがって両手で運転するオート3輪がありました。近所の八百屋さんのお兄さんが運転していました。卸し市場に行ったり、大口注文を届けに出かけたりしていたのです。これが50万台も売れていました。
もっと知っておきたいのはテレビです。1959(昭和34)年には皇太子殿下のご成婚パレード中継がありました。もちろん、皇太子殿下ご夫妻とは、現在の上皇、上皇后陛下のことです。初の平民出身の皇太子妃殿下の誕生でした。それまで皇族殿下方のご結婚相手は、皇族か戦前の華族(公爵から男爵までの爵位をもつ人とその家族)からだけが普通でしたから、みんなびっくりしたものです。
KRT(のちにTBSとなります)、NHK、NTV(いまのニッテレです)の3社がパレードの実況中継をしました。視聴率は79%だったとか。わたしも観ました。お行列の先頭を走るのは警視庁騎馬隊だったか、皇宮警察のそれだったか、はっきりしません。ただ、のちに大学で一緒になった友人のお父上が、その指揮官だったことは間違いありません。直にお話をうかがったこともあり、戦時中は最後の乗馬騎兵だった華北駐屯部隊におられたとのことでした。
テレビの台数は全国で200万台、61年には1000万台となりました。ソニーのトランジスタ小型テレビは約7万円くらいだったでしょうか。21インチのカラーテレビは31万円だったことが手元のパンフレットに載っています。
61年の4月はNHKで「夢であいましょう」、6月にはニッテレで「シャボン玉ホリデー」が始まりました。ハナ肇さんが双子の姉妹、ザ・ピーナッツさんと出演でした。10月にはTBSで社会派刑事ドラマ「七人の刑事」が始まりました。昭和の大歌手坂本九さんの大ヒット、「上を向いて歩こう」が「夢であいましょう」から生まれました。
https://www.youtube.com/watch?v=aXcyoJFYCqA

防衛2法と「ニジボウ」

 昭和36年の防衛庁映像には、長い時間をつかって「防衛庁設置法」と「自衛隊法」の改定が国会で成立する様子があります。この2つの法律を「防衛2法」と言っています(現在は2004年から「防衛省設置法」)。
 防衛省・自衛隊は、この2つの法律で成立しているのです。それでは、この2つの関係はどうなのか。防衛省には背広を着た官僚がいて、自衛隊には迷彩服を着た隊員がいるなどと考えては間違いです。
 実は、まったく同じもので、組織として見た場合と、行動などを基準とした場合の違いで呼び分けているだけでしかありません。防衛省とは国家行政組織法で定められた行政機関の固有名詞、自衛隊とは部隊行動の機能上の面からみた実力機関としての呼び方になります。だから、他の官省庁とちがって、2つの法律が必要になりました。
 設置法は、行政機関としての設置目的・所掌する事務・機構や組織を中心に書かれています。自衛隊法は、自衛隊の任務・部隊の編制・組織・行動・隊員の身分などが定められているのです。
自衛官とは階級をもち、制服を着用して防衛省や部隊、研究所、学校、機関などに勤務する人のことをいいます。同じところに背広を着て勤務する人(ふつうの公務員試験の合格者で採用された人)も防衛省職員であり、自衛隊員であることもよく知られていないようです。
 昭和36年、この2つが改定されました。もちろん、野党や国民の一部の勢力は「軍国主義につながる」とか「ソビエト連邦や中国に脅威を与える」とか、「軍事力を増強などせず、話し合いを中心して安全保障は考えるべきだ」とかの反対を熱心に行ないました。マスコミの多くは、しかもどうしてかNHKまでがそうした論調でした。
 驚かないでください。あの朝鮮戦争ですら、アメリカ軍の侵攻の結果だと信じ、主張する人たちが野党や大学、言論界にはいっぱいおりました。もちろん、熱心な社会主義者だったはずの「日教組」もそうした解釈が正しいと主張していたのです。全国で基地反対闘争が、そうした勢力によって起こされたのも当然ですね。
 この2法の改正で、陸・海・空自衛隊も、より組織だった現在に近い形になってきます。すなわち陸上自衛隊では、6個管区隊4個混成団が、13個師団体制になったのです。海上自衛隊は自衛艦隊のもとに護衛艦隊、潜水艦隊、航空集団と統一された形をとり、航空自衛隊も組織が大きく変わりました。統合幕僚会議の権限が大きくなり、3自衛隊を統合する運用も研究されるようになります。
 映像には、群馬県榛東村(しんとうむら)に第12師団司令部が開かれる様子が映っています。地域の子供たちも、手に手に日の丸を振って大歓迎です。

国産装備の充実と2次防

 この50年代後半から60年代の前半にかけて、多くが米軍供与だった装備が順に国産化されてゆきます。3自衛隊とも、人員、装備品や運用については57(昭和32)年から60年度にかけて第1次防衛力整備計画として実現しました。
つづいて、61(昭和36)年度は2法の改正もあり、単年度となりましたが、2次防は62年度から66(昭和41)年度までの5カ年計画として策定されます。
 この計画の特徴は、「防衛力整備の目的とする事態」を通常兵器による(核攻撃にはお手上げ)局地戦以下(国全体ではなく、ごく一部の地域)の侵略に対処する能力と明文化されたことでした。したがってこの時点での防衛力は、第2次世界大戦・朝鮮戦争対応型の装備を更新し、対空誘導弾の導入も図ることとなりました。
 国産装備ができないのがジェット戦闘機です。F86Fセイバーの装備も終わり、次世代のロッキードF104Jスターファイターの導入が決まりました。Jがつくのはライセンスされ、一部がわが国向けに回収された機体です。もともと1954(昭和29)年に原型が初飛行し、最後の有人戦闘機などと騒がれました。もう人が操縦する最後の戦闘機だろうといわれたのです。もっとも、そうしたキャッチコピーはたいていがハッタリであることは今も昔も変わりません。
 アメリカ空軍は、この速度と上昇力を売り物にした「軽戦闘機」は少数しか採用せずに、NATO(北大西洋条約機構)諸国が注目しました。ソ連空軍の軽快な戦闘機に対抗するには最適だとされたのです。西ドイツ、ベルギー、オランダ、デンマーク、ノルウェイ、イタリア、トルコ、ギリシャなどが次々と購入し、わが自衛隊もドイツ空軍用のG型を改修して日本の空の護りとしたのです。
 決め手となったのは高速性能(マッハ2.0)と加速性(映像で確認できる)、上昇性能でした。戦闘行動半径は620カイリ(約1150キロメートル)、実用上昇限度1万8000メートルで武装はM61・20ミリ機関砲とAIM-9空対空ミサイル(サイドワインダー)×4というものです。あまりに薄い主翼も特徴で、脚が胴体内に引き込まれます。
 何より大きなことは、全国を覆うBADGE(バッジ)システムによって、要撃管制員の誘導で行動することでした。要するにソビエト空軍の爆撃機を迎撃することに絞った選択です。したがって、西ドイツ空軍のG型のような爆撃コンピュータをもっていません。
バッジ・システムは38年にマニュアル式のエアクラフト・コントロール&ワーニング(AC&W)に代わって導入されました。すでに36年には沖縄県を除く全国のレーダーサイトが米軍から空自に移管され、半自動の防空管制システムは準備されていたのです。
 このF104戦闘機を210機、復座型の練習用戦闘機を20機の合計230機を国産し、4個航空団の7個飛行隊に配備します。
 2次防では海上自衛隊の近代化も注目です。護衛艦(DD)は9隻、潜水艦(SS)4隻、掃海艇(MSC)10隻、駆潜艇(PC)3隻などがこの5年間に竣工しました。とくに注目すべきは「あまつかぜ」(1965・昭和40年竣工、DDG163)でしょう。DDは駆逐艦を表し、Gとは誘導弾を表します。前甲板には砲塔が2基ありますが、後甲板には対空誘導弾ターターが見られます。
 対潜水艦型の護衛艦「やまぐも」型も2次防でした。このクラスの護衛艦(基準排水量2050トン)には珍しくディーゼル機関をもち、アスロックSUM8連装発射機、ボフォース4連装対潜ロケット発射機も装備しています。
 
 アスロックはロケットの先端にホーミング魚雷を装備したものが発射され、ブースター部分にはパラシュートが内蔵されました。調整された目標海面に到着しパラシュートで着水すると、ブースターを切り離して水中をホーミングによって目標潜水艦を追いつめます。最大射程は約8カイリでした。

装備品国産化が進む陸自

 毎年、公開映像には演習の様子が描かれます。この中には2次坊の中で進んだ国産武器(兵器とはいえない)がいろいろ登場します。60式装甲車が走っています。いわゆる歩兵戦闘車ではなく、戦場で歩兵を敵弾から守る装甲をもつ「戦場のタクシー」です。10人が乗れますが、小松製作所と三菱重工で1973(昭和48)年までに460輌が生産されました。重迫撃砲(口径107ミリ)や81ミリ迫撃砲を積んだ車体もあります。エンジンは空冷ディーゼル220馬力、最高速度は時速45キロ、車体の前に7.62ミリ機関銃と車長席に12.7ミリ重機関銃が付けられます。
 60式自走106ミリ無反動砲も有力な対戦車火器でした。乗員は3名で、クローラー(キャタピラ)付きで小型軽量。低姿勢(全高1590ミリ)が何よりの特徴で、不意急襲(ふいきゅうしゅう)的に初発・必中の射弾を発射します。
 こういうと堅苦しいのですが、地形を利用して待ち伏せてソ連軍戦車にヒット・アンド・ラン、しかも一発目から命中を狙うといったものです。大口径であるのに、発射ガスを砲尾から逃がすので閉鎖機、復座駐退機、揺架といった装置が要りません。軽量でした。同じような口径の105ミリ榴弾砲と比べれば10分の1の215キログラムしかありません。ただし、後方への爆風が盛大に出るので、発射すればすぐに位置が暴露するという欠点がありました。
 砲身の上には平行して口径50(1インチ=2.54センチ×100分の50)、つまりブローニング重機関銃と同じ12.7ミリのスポッティング・ライフルが付いています。射撃の前には、これを発射し、弾道を確認して続いて砲撃しました。「銃ハッシャー!」、「砲ハッシャー!」と順に号令がかかって撃ったそうです。
 射手が右手で握把(あくは・グリップ)を前に倒すと銃が、後ろに倒すと砲が発射されます。不慣れな人だとあわてて後ろに倒し、いきなりドッカーンと砲が撃たれるということもあり、周囲が驚かされるということもあったそうです。
 
 砲身長は3332ミリ、砲身重量は115キログラム、初速は500メートル/秒、有効射程は1100メートル、対戦車榴弾、曳光粘着榴弾と演習弾の3つがあります。いわゆるバズーカ(ロケット・ランチャー)と対戦車ミサイルMAT(64式有線誘導)の中間的存在でしたが20年ほど前までは部隊には観られました。普通科(歩兵)連隊の小銃中隊の中にある対戦車小隊にあったのです。
 実物が茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校の展示場にあります。土嚢に囲まれた射撃陣地の中に砲身を2つのぞかせた車体が見られます。
 次回はいよいよ第3次防衛力整備計画(昭和42年度から46年度)、東京オリンピックを成功裡に終わらせたわが国が1967年度からの5年間で築き上げた防衛力を「記録映像」の見どころをご紹介しつつ書いてみましょう。
(あらき・はじめ)
(令和三年(2021年)2月24日配信)