陸軍工兵から施設科へ(60) 新幹線が走る前

昭和30年代は映画の斜陽が始まった

 わたしは豊島区の池袋から少し離れた私鉄沿線の駅の近くで育ちました。駅前には小さな、少し歩いたバス通りにはやや大きな映画館があったことを覚えてきます。また各駅の前には必ず映画館がありました。
券を買って入口に入るとオバサンがいて切符をもぎってくれました。正面の扉を開けてスクリーンにお目にかかる前に、たしか右側の通路を行くと売店があったものです。お煎餅やアンパン、牛乳やジュースが置かれていました。
 それが小学生の頃の思い出です。映画史に詳しい方の本を懐かしく見ています。『清張ミステリーと昭和三十年代』(藤井淑禎・文春新書、1999年)の記述を見ると、全国の映画館数は昭和35(1960)年に最大で7457館もありました。観客者数のピークはといえば昭和33(1958)年で11億2745万人だそうです。国民1人当たりにして1年に12.3回、なんと毎月1回は赤ちゃんからご老人まで映画館に行っていたという数字になります。
 老人や、赤ちゃんがそうそう映画館のような空気の悪い所にいくわけもない。なにぶん映画館の中は喫煙自由だったし、酒を飲む人もいたし、痴漢もいっぱいいました。赤ちゃんや老人を除けば、おそらく毎週1回から2回も映画館に行く人だらけでした。
 新しい映画が出ると、大きなペンキで描かれた看板が書き直されました。銭湯に行けばやはり富士山のペンキで描かれた絵があったものです。
 ところで、映画が斜陽になったのも昭和30年代でした。新幹線が走り、東京オリンピックが開かれて、東京を首都高速で走れた1964(昭和39)年には、映画館数は4937館と最盛期の66%になりました。観客数も4億3145万人ですから、こっちは62%の減少でした。年に1人あたり4.4回になっています。

テレビの普及のおかげではなかった

 これについて当時の映画業界誌の分析では、「高度成長下の農村地帯からの青少年の流出という社会構造の変化」が理由の1つとされています。農村部ではそれまで有力な観客層だった青少年が大都会に流出し、おかげで地方の中小都市の映画館が寂(さび)れたというのです。農村部に残ったのは、もともと労働時間が長い40歳代の人たちで、映画に関心が向かなかったのだろうといいます。
 では、大都会ではどうか。実は農村から出てきた若者たちは一人暮らしの生活苦と、物価の高さに圧倒されて映画館に行くことができなくなったとも業界は分析しています。映画を圧迫しているのはテレビなんかではなかった、旅行やパチンコだという指摘もされていて興味深いです。レジャーの多様化がもっとも映画の斜陽化に影響したとも言えるのでしょう。

吉永小百合さんの時代

 吉永小百合さんは1959(昭和34)年から映画に出演され始めました。テレビにはあまり顔を見せず舞台も敬遠されていたようです。1974(昭和49)年の結婚から、おおよそ年に1回は映画に出ていますが、代表作はなんでしょうか。
大女優といわれ、サユリストともいわれた熱烈なファンがいたはずなのに、わたしはせいぜい「キューポラのある街」しか思い出しません。60年代の日活純愛路線といわれた連作くらいでしょうか。あとは、「皇帝のいない8月」(1978年)、「動乱」(80年)、「海峡」(82年)、「華の乱」(88年)など、こういっては失礼ですが、どれも興行的には見るものはありませんでした。
 中学生になった年、わたしの印象では、新幹線が走った年の「愛と死を見つめて」が強烈でした。なんだか見ていてやたら照れるばかりの純愛路線です。思えば、彼女は1945(昭和20)年生まれであり、おそらく戦中生まれと団塊の世代の方々のアイドルだったのでしょう。
 彼女は「清純」でした。60年の安保闘争と64年の東京オリンピック、そのはざまの時代は活気とエネルギーにあふれていました。それこそコンクリートが日本中を覆い始めたと言っていいでしょう。建設と復興の時代です。こうした時代に彼女の清純は若い人々の心をつかんだのでしょう。
 「民主主義」と「自己主張」も彼女の作品によってもたらせられました。彼女が主演した石坂洋二郎の青春物も時代の産物でした。ただ、有名な「青い山脈」などもまさに、戦前社会をマックラな時代と描きました。「封建時代」の影響が長く残った男女差別や家制度の重圧からの「解放」がとても心地よく受け止められたのです。
「遅れた日本」をなんとかしなくてはならない、そのためには彼女のような清純派が率直な物言いをすることが必要だと思われていたのです。学校ではホームルームが推奨されました。学校の先生たちはソビエト連邦の教育を素晴らしいものと受け止めて「集団教育」などが大好きでした。
今から見れば、ひどく滑稽なことに北朝鮮は地上の楽園でしたし、中国は国民みんなが美しい毛沢東思想にひたった理想の発展途上国でした。そしてソ連こそ人間性に優れた教育制度をもち、民主と自由と平等の理想郷だったのです。マスコミや芸術家、インテリ志望の人たちの世界だけでしたが。

小林旭さんのこと

 1年ほど前でした。亡くなったばかりの幅広い活動をされた音楽家・大滝詠一氏を偲ぶ番組です。その大滝氏は、往年の大俳優小林旭さんの熱烈なファンでした。1985(昭和60)年には小林さんのために「熱き心に」という楽曲を作りました。
 そのBS番組では小林さんがしっかりと大滝さんとの思い出を語り、名曲を熱唱されました。ずいぶんお歳を取られましたが、あの懐かしい昭和30年代を思い出しました。
 小林旭さんは1956(昭和31)年の日活ニューフェイスの3期生でした。同期には沢本忠雄、川地民夫という、のちにテレビ・ドラマなどに転身された方々がいます。この3人を日活宣伝部は「日活三悪」といって売り出しました。これは当時の岸信介内閣(57年2月成立)が、「汚職・暴力・貧乏」を社会から追放するべき3悪とうたい文句にしたことにひっかけたもののようです。
 つまり新幹線計画が論議されていたころの社会は、汚職があり、街には暴力があふれ、貧乏だった人が多かったということでしょう。活気の元はどうやら戦後の混乱をまだまだひきずっていたように思います。
 小林さんは石原裕次郎さんより3歳下でした。1958(昭和33)年には石原さんは観客動員数第1位の大スターです。「陽のあたる坂道」は、その年で封切られた全部の映画で最高の配収でした。「嵐を呼ぶ男」が第5位です。第2位は東映の「任侠東海道」、第3位が大映の「忠臣蔵」、第4位は同じく大映の「日蓮と蒙古大襲来」という順位です。こうしてみると、当時の社会の雰囲気がよく出ます。浪曲が元になった清水次郎長の任侠もの、年末映画の定番「忠臣蔵」、それに日蓮上人と元寇の話など。現在との懸隔を感慨深く思います。
 次回は東京オリンピック、新幹線開業が何を変えたかについて、わたしの愚考を書かせてください。
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)11月23日配信)