陸軍工兵から施設科へ(57) 新幹線の開発

ご挨拶

 それにしても諸物価が上がっています。中には包みの中の量が減り、価格も上がるという商品もあるとのこと。久しぶりです。こういう値上げ気分は。というのも、わたしのような人間の若いころは、物価も上がり、同時に収入も増えるというものでした。
 都市労働者の月収を見てみましょう。1964(昭和39)年の実収入が6万3400円で、実支出は5万3600円でした。それが1966(昭和41)年になると、収入が7万5300円、ざっと40%増、支出は6万3400円で18%増なのです。翌年には収入が8万2600円、支出は6万9100円となり、それぞれ前年比が9.7%増、9%増となり、物価(消費)は上がっても同時に給与がほぼ上がるという状態でした。
 長い目で見てみましょう。所得の1人当たり雇用者所得前年比は1960(昭和35)年に10.3%の大台にのって、以後1976(昭和51)年の10.7%までずっと1割以上の上昇を示します。1970(昭和45)年には前年比17%にもなり、74(昭和49)年には空前の28%を記録しました。それが77(昭和52)年には1桁台の9.9%になり、以後平成時代はほとんど給与が増えたという実感はなくなります。
 1970年といえば、岡本太郎氏のデザインの「太陽の塔」で有名になった、大阪千里丘陵で開かれた万国博覧会の年でした。66年からこの70年までの経済成長率は11.4%だったのです。そうして71(昭和46)年にはニクソン・米大統領がドル防衛策を発表し、東京外国為替市場は大暴落を呈します。それでも田中角栄内閣はなんとか乗り切りましたが、構造不況といわれる経済の行き詰まりが見られました。
 1980(昭和55)年以降は、ほんとうに低成長時代でした。この年頃から社会人になった方々(60歳より下)は、あの明日はもっと豊かになるといった気分をご存知ないのでしょう。収入も増えない、その代わり物価もそう上がるわけでもない。こういった暮らしに慣れてしまうと、今回の諸物価高騰は驚かれることでしょう。

国鉄技術研究所の講演会

 1957(昭和32)年5月、東京-大阪間3時間、機関車牽引ではない全車輌が電車の運転が可能という発表がされます。そういえばテレビで見ていても、鉄道なら「電車」という若い方が多い。われわれは、「列車」という。列車というのは汽車にひかれた客車や貨車とパンタグラフが付いた電車、ジーゼルで動く気動車がありました。それがいつの間にか、線路を走る列車はみんな電車になったのですね。国鉄には電化された近郊や都市内を走る電車が昔からありました。でも、高速で走る急行や特急は多くが機関車にひかれたものでした。
 特急列車が電車になったのは、鉄道に詳しい方々ならよく知られていますが、私鉄小田急電鉄のSE車といわれるロマンスカーです。その開発には国鉄の技術研究所が加わっていました。

十河の発言

 この発表会で、国鉄総裁の十河信二は次のように語ったそうです。「戦後10年を経て、世間の指弾の的になっているのは、輸送力の不足である。適切なる輸送力の増強の方策を講じて一般の要望に応えなければならない。鉄道は他の交通機関にくらべて必ずしも時代遅れではない。近代化された鉄道こそは絶対必要となる。ドイツでも鉄道復興熱は盛んであると聞く。アメリカでも鉄道は斜陽産業と思われていたが、ペンシルバニア鉄道の社長は、近代化された鉄道は基本産業であると言っている。英国も鉄道始まって以来の大改革を行なっている」
 さらに東海道を増強するなら広軌であると考えていると言葉を続けます。ゲージを改めてスピードアップし、大量輸送をしなければならないというのです。
 第2回の調査会は7月4日に開かれ、狭軌と広軌の併設案、狭軌別線案、広軌案の3案について検討することが決められました。第3回は9月4日、軽車両による電気鉄道案を追加検討することになりました。第4回は年が明けて、1957(昭和32)年1月23日に開きます。
 この会議では狭軌、広軌どちらを採用するか議論が交わされました。ただ、まだまだ広軌に決まったというわけではなかったようです。青木氏によれば会議の間の十河の発言には、いま聞いてもなかなかの意見があります。原子力の時代に、わが国は狭軌で良いのか。東京-大阪間の距離を諸外国は4時間で走り、わが国は8時間かかるというのは世界の競争に耐えられるか。鉄道が経済発展について行くという考え方ではなく、交通機関が経済をリードしていくということを考えねばならない。
 当時の国鉄内の空気では広軌新幹線については70%くらいが慎重だったようです。

広軌で電車運転、これこそが新幹線

 東海道線はすでに1956(昭和31)年11月には全線電化が完了していました。58年7月に調査会が答申を出しました。決定案は次の通りです。広軌・複線にすること、始点と終点は、東京と大阪とする、ただし将来、大阪以西、東京以東への延長を考慮する、在来線との連絡を緊密にする、旅客急行は3時間、貨物は5時間30分を目標とする。その他の細かい話は省きますが、貨物については実現しませんでした。
こうして1957年の12月19日に閣議で了承がされました。ただし反対意見もありました。それは「中央道の高速自動車道路も建設するのに東海道に新線を造る。巨額な資金をどうするのか」という財政的な方向からの意見です。たしかに当時は自動車の発展時代で、東海道の高速道路も建設することになっていました。
もっとも烈しい反対は、新しい鉄道など時代錯誤というものだろうというものでした。鉄道や船舶から飛行機、自動車の時代になっているのだというのです。新幹線などという無駄なものより、国内の航空路の拡充、飛行場の整備、高速道路の建設が重要だという主張が多くありました。
いま、その反対論を検証したらどうなのでしょう。将来の見通しほど難しいものはありません。
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)11月2日配信)