陸軍工兵から施設科へ(40) 丹那盆地の水が抜ける

電力の涸渇が示すもの

 それにしても猛暑が続くと、渇水と電力消費が話題になります。いろいろと議論があるようですが、要は原子力発電をどうするかということでしょう。東日本大震災のあとに、原子力発電所はすべて禍々しいものとされました。再生エネルギー推進、火力発電は地球温暖化に害ありとされて縮小する、原発は動かさないとしてきたのです。
 おかげで原子力が全電力に占める割合は、わずか4%となりました。あわてて再稼働を検討すると言っていますが、この冬には間に合わないとのこと。施設が老朽化しているために再稼働には時間と経費がかかるのは当然でしょう。
 なにか防衛力の話とも、つながる気がするのは私だけではありまぜんね。ドロナワです。泥棒を見てから慌てて捕まえ、縛るための縄をなうという諺です。どうも、わが国はいつもこれだとしか思えません。
 多くの政治家、政党はまだ「専守防衛」と主張します。そうして、そんな人たちが当選するのは、おそらく多くの国民がそう考えているのでしょう。やられてから初めて撃ち返す、つまり当初のこちらの犠牲は甘んじて受けるということです。ミサイルによって1つの都市が攻撃され、多くの死者が出ます。そこで初めて反撃できる。ところが、敵の基地は安全です。だって、その基地を叩く能力は持ってはいけないのでしょう。
 二の矢、三の矢が飛んできてもそれを撃ち落とすことしかできません。当然、すべてが命中するわけではありません。そうしている中で国会では「話し合いをする」とか、「国際連合に訴える」と話し合うのが唯一の対処でしょう。
国土は侵され、敵軍が銃砲火を浴びせてくる、避難態勢もきちんと計画されていない一般国民はどうすればいいと言うのでしょう。いや、そんなことは努力すれば絶対起きないよと言いながら、いざとなったら「座して死ね」と国民に言っているのが憲法9条ではありませんか。
さて、丹那トンネル工事は進みます。いよいよ電力も使えるようになります。吉村氏の取材の結果は「闇を裂く道」に詳しく書かれています。今回もお世話になりました。

工事が再開された

 崩壊事故の原因は地質が想定以上に悪く、粘土層が多かったからだと推定されました。その粘土の上を岩石が滑って動いてしまい、支保工の丸太が次々と倒れた、そう考えられたのです。
 事故から4カ月後、1921(大正10)年8月に火力発電所が完成します。三島口から600メートル、蒸気汽缶4基、米国製発電タービン、発電機各1台が据えられました。熱海口までも高圧送電線がのびて2万2000ボルトの受電設備も両口にできます。こうして電力で削岩機は動き、坑内も電灯がともりました。電気機関車も入り、トロッコを牽くようになったのです。
 世界大戦が終わり、好況が過ぎたため電力会社は低価格での供給を申し出てきました。そうなると経費上も火力発電より安くなります。こうして火力発電設備はいったん完成したのですが、水力発電の会社の申し出を受けてすべて供給を受けることになりました。火力発電は緊急時に使うことになったのです。
 熱海口の工事はさらに進み、三島口は導坑を掘り進めるのと同時に大量の水に苦しめられていました。これが坑道の上で何が起きているかは、当時は誰も気づきませんでした。

三島口でも悪断層にぶつかる

 1922(大正11)年といえば、今年からちょうど100年前になります。2月16日には三島口の導坑先端は入り口から約1500メートル(4940フィート)の地点に進んでいました。翌日の午前5時のことでした。導坑の切端から9メートル手前の地点で、すさまじい勢いで大量の水が溢れだしてきました。支保工は将棋倒しに倒れ、15メートル手前の地点からも土砂が流れ出ました。
 水の高さはどんどん増して、排水溝を増やすことにします。幅は80センチ、深さ30センチの溝を2本つくりました。その溝も入口まで1500メートルも掘らねばなりません。それが完成したのは5月初旬になってしまいました。床の岩をくだいて溝を埋設します。その間も、水は上から降り注いできました。
 どうやら水が外へ排出されましたが、導坑は強い土圧におされて狭くなってきます。樫の堅い板を土中に打ち込んでも板は割れ、いっこうに掘削は進みません。鉄道のレールを3本まとめたものを板の代わりにしました。直径20センチの鉄管を丸太代わりに使うことになりました。もともとは換気用の送風管に使うものでした。
 それでも鉄管は曲がり、レールの束もゆがんでしまいます。秋が過ぎ、冬になっても導坑は1センチも進みませんでした。まったく未知の断層だったのです。
 迂回して断層を突きぬけよう、そう技術陣の結論が出ました。切端から45メートルの地点で45度の角度で右方向に18メートルの導坑を掘削する、その位置から予定線と平行に掘り進める。そうして良い地質になったら元の予定線に戻るというものでした。当初はうまく行きました。しかし、39メートルを進んだところで、また水の噴出があったのです。さらに12メートルを進んだところで、また土砂と水が噴き出してきて丸太と板を押し流してしまいます。こうして迂回路は放棄されました。

ボーリング調査を行なう

 もう1年以上も導坑工事は止まっています。1月25日、切端から37メートル手前で45度に向かって、今度は左方向に進むことにします。そこでボーリング調査をして、前方の地質を調べることにしました。先端にダイヤモンドを埋め込んだノミで前方の様子を探るのです。
ダイヤは、1個が1.5カラットの鉱業用ダイヤモンドでしたが、1カラット200円もするもので、それを6個から12個付けました。6個で1800円もします。1円がおおよそ現在の7000円くらいと考えると、1260万円もの経費がかかります。
ノミが水平にされて切端から前の土中に入っていきました。しかも30センチを進めるのに経費は6円50銭から25円もしたそうです。4万5000円から17万5000円ということですね。
結果が出ました。切端から約12メートルの間には、きわめて悪質な断層破砕帯がありました。そこの地質は悪かったけれど、それさえ通り抜ければ集灰岩、安山岩の堅い地質であることが分かりました。掘削工事は続けられ、北側の迂回坑は断層破砕帯を突きぬけ、6月4日に36メートル先に着くことができたのです。
こうした状況で、未完成のトンネルは9月1日、関東大震災を迎えます。1923(大正12)年のことでした。
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)7月6日配信)