陸軍工兵から施設科へ(41) 三島口で崩落

もういい加減に「元自衛官」やめてください

 まずもってテロの凶弾に倒れた安倍晋三氏のご冥福を祈ります。まさか、この時期に、駅頭で命を落とされるとはという思いです。これを書いているのは9日の土曜日ですが、明日の選挙結果がどうなるか予想もつきません。
 それにしても、映像を見る限り、元首相への警護を行なったSPと奈良県警警備担当者の大失態でした。犯人は横断歩道でもない車道を歩いて横切って元首相の背後に回っています。そこで誰も気づいていない。あるいは対応できていない。驚いたのは最初の発砲の後に誰も「伏せろ!」とか「動け!」という指示を出していません。
 SPといえば警護のプロで拳銃、徒手格闘、逮捕術の猛者と聞いています。訓練の様子を見てもなかなかの動きを見せてくれます。しかし、今回の警戒態勢のお粗末さはどうしようもありません。銃器による加害など、誰も想定していなかったのでしょう。まさにお花畑は一部の非武装論者だけでなく、奈良県警のトップから末端までの脳内にありました。
 さて、疑問に思うのが、犯人をすぐに「元海上自衛官」と報道する姿勢です。マスコミの彼ら、彼女らには「自衛官という武器を扱う人間は知性が低い」という偏見があるからでしょう。わたしも立場上、多くのマスコミ人にインタビューされますが、よく聞かれるのが、「自衛隊員って洗脳されていますよね」という言葉です。驚かされるのは、平成を30年、そして令和になっても「洗脳」などという「昭和の言葉」を使う人がマスコミ人氏にいることです。
 もともとわが国には武人への偏見がありました。日露戦争の時ですら都市の中産階層に属する人間が兵営で「戦争は軍人と軍需産業が儲けるために起こすのだ」と公言していたことがあるくらいです。中等教育と高等教育が大きく充実した大正時代には、彼ら自称インテリ、知識人は軍人に敵対しました。
 昭和になってもその気分は変わりませんでした。自由を標榜し、反戦・反軍をうたう言論は当時のインテリ向け新聞の拡販、売上げ向上に大きく貢献したのです。ところが、日華事変が始まり、戦火は拡大し、臨時動員がくり返され精鋭度と純粋度を失った軍隊にも多くのインテリが入営することになりました。
 その人たちが、戦後、占領軍の保護を受けて広めたのが「軍人蔑視論」でした。戦争に負けたのも、肉親を失ったのも、すべて知性の低い軍人が社会をリードしたからだ、こうした主張を自分のみじめな体験を元に語り継ぎました。
 まさに犯罪が起き、その犯人が自衛官経験者であると「元自衛官」と強調するのは、「昭和の偏見」を元にしたものと言えます。平成の若者に通じるかどうか、新聞・テレビの旧いマスコミが試されています。「刃物対応の昭和の警備」をしている警察の方々の有事対応への脱皮に期待しています。

関東大震災には耐えた

 大正12(1923)年9月1日、関東大震災が発生しました。トンネルの外でも大変でした。いまも神奈川県の歴史には載っていますが、熱海線の根府川駅では進入してきた列車が海中に転落します。高さ40メートルの崖を海岸まで滑り落ちたのです。家内の実家がすぐそばにありますが、家のすぐ下を土石流が流れ、川で遊んでいた子供たちも犠牲になりました。
 震源地は相模湾南西部でした。湾の海底に大きな変動がありました。深さ1200メートルの海底が幅2キロメートルから5キロメートルにわたって100メートルから180メートルも陥没し、その反動で相模湾北東部の海底が100メートル以上も隆起したのです。
 以下は神奈川県史から得た数字です。県内の家屋の倒壊数は全壊約4万7000戸、半壊約5万3000戸、合計約10万戸に及びました。これは県内全戸数のおよそ36%にもなります。また大津波によって425戸が流されました。
 静岡県下の被害も大きく、東海道線であった御殿場駅は半壊し、鉄橋も落ちました。駿河小山と山北駅間のトンネルも崩落してしまいます。こうして東京と沼津間の鉄道は使えなくなったのです。
 熱海口には坑内作業員が次々と飛び出してきました。トンネル内には異様な大轟音が続いたといいます。幸い人員に被害はありませんでしたが、熱から東京方面に向かう最初のトンネルが崩落しました。坑内に人が閉じ込められており、直ちに救助坑が掘られます。そうして60時間後には27人の全員が助かりました。
 丹那トンネル本体はどうだったか、誰もが心配しましたが、送電線が切れていただけで内部にはほとんど損傷もありませんでした。三島口も同様で、丹那トンネルが関東大震災で大きな被害を受けていないことが明らかになりました。

三島口の崩落

 東海道線(現在の御殿場線)は10月28日には運転が再開されました。ほぼ2カ月がかかり、熱海線も11月15日には営業が始まります。三島口は2年間の中断の後に迂回坑を掘り始めました。
 1924(大正13)年2月10日、午前9時20分、土砂と泥水が噴き出してきます。崩壊が起きてから40分後、どうやら収まりました。切端から380メートルほども土砂が押し出してきています。迂回坑も入口をふさがれて、中には作業員がいるはずです。その数はおそらく16人と想像されました。
 流れ出た泥の上に松板を並べ、技師たちが切端に近づいていきます。すると上部には異常がなく、土砂の噴出は下部からだということが分かりました。溜まっている泥土の量は坑道の床から約4メートルもの高さです。排水溝から流れる水の奔流もふだんの3分の1しか見られません。つまり、閉じ込められた坑道の中では水位が高まっているのではないかと考えられました。
 救助坑の掘削は11日午前3時30分頃でした。27.2メートルを掘り進めれば現場の上部に貫通する見込みです。午後9時には4メートル進みました。毎時平均30センチメートルの掘削で、貫通までには68時間を必要とすると計算されました。しかし、順調に進んだ結果、14日午前4時半には26メートルの地点まで到達します。
 問題は水です。もし大量の水があふれ出てくるような状態では、それを減らしてからでないと、さらに土砂が流れ出してきてしまう。そこで上に掘られていた救助抗の床を20メートルにわたって掘り下げようとなりました。19日午前4時半、迂回坑と水平の位置になったのです。ノミで穴を開ければ、そこから水が排出されるようになりました。
 事故から16日あまり、とうとう救助坑は貫通します。しかし作業員は全員が溺死していました。そして新聞の非難攻撃が始まります。中でも帝国大学農科大学の2人の地質学者による建議が大騒ぎをもたらしました。
 1人の教授の意見は今からみると卓見でした。トンネル上方の丹那盆地は湖水の跡であるというのです。盆地はいまも周囲の水の大集合地であり、地中の断層は大きく、それがトンネルを掘る予定線を横切っている、しかもこの断層には大量の水がしみ入っているというのです。
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)7月13日配信)