特別紹介 防衛省の秘蔵映像(8) 4次防の始まり─昭和48年─

昭和48年映像の紹介
https://www.youtube.com/watch?v=iD_6PK5nO98

はじめに

 今回から第4次防衛力整備計画(昭和47~51年度)中の映像、はじめに昭和48年版をご紹介します。4次防は1972(昭和47)年の2月8日に発表されました。「5カ年計画の大綱」、「5カ年計画の主要項目」、「策定に関しての情勢判断及び防衛の構想」という3部に分かれています。
 4次防は3次防(昭和42~46年度)の考え方を継承しており、その整備方針も3次防とほとんど同じです。ただし、4次防では、とりわけ老朽化した装備を近代化して更新することを重視しました。また、3次防と同様の調達ベースによる装備の充実が見られました。
海上自衛隊は周辺海域の防衛能力の強化に力を注ぎ、航空自衛隊は新しい戦闘機、F4EJファントムを戦列に加えました。映像中にもありますが、茨城県百里基地に新しい第7航空団第301飛行隊が編成されたのです。
 
つい先日、護衛艦「はぐろ」が進水しました。これによって防衛大綱に決められたイージス・システム搭載護衛艦が8隻になります。もちろん、北朝鮮によるミサイル攻撃を防衛するといったことが目的とされますが、やはり何よりその対空防御能力の高さが売りでしょう。
この1973(昭和48)年の映像には、DD141「はるな」の竣工(2月27日、三菱長崎造船所)と、DD142「ひえい」の進水(7月、石川島播磨造船所)が見られます。その堂々たる姿が頼もしいです。

対潜水艦ヘリ空母か

 DDHともいわれる、ヘリコプター搭載護衛艦は、この「はるな」が初めてになります。大型の対潜水艦ヘリコプター(HSS-2B)を3機も積むところが注目されました。排水量は4700トン、全長は153メートルにもなり、第2次大戦以前なら巡洋艦級の大きさです。列国では小・中型対潜水艦ヘリを1機から2機搭載がふつうなのに、大型機を3機も積みました。
 船体中央部から後方の約3分の2はヘリ関係にあてられて、後部の約50メートルはヘリポートです。中央部には段差のないオン・デッキタイプの格納庫があります。また、荒天時にもヘリの着艦を容易に行なうための拘束装置「ベア・トラップ」を付けました。荒れた海上でも、ヘリは安全に降りて格納庫へ移送装置で動かされます。
 このヘリ(HSS-2B)は米国シコルスキー社製の大型双発タービン・エンジンを積んだ機体でした。英国、イタリア、カナダなどでも採用され、わが国では三菱重工がライセンス生産をしました。メインローターは5枚もあり、格納を考えて自動で折り畳むことができました。乗員は正副操縦士に、レーダー操作員、MAD操作員の4名でした。
 MADといわれた磁気探知装置の他に海中の音を探るソノブイ、吊り下げ式ソーナーも持ち、攻撃兵装は胴体前と後部の両側にランチャーを装備し、爆雷やホーミング魚雷など、380キログラムまで持てました。ローターの直径は18.9メートルもあり、自重も5180キログラムという大型です。
 「はるな」の兵装は、後部がヘリ甲板になったために、127(5インチ)ミリ単装速射砲2基を背負式に前部にまとめ、その直後にアスロック(アンチ・サブマリン・ロケット)発射機が置かれます。背負式とは2基の砲塔の高さを変えて、後方の砲塔を高い位置に置くことをいいます。近頃の護衛艦は砲を1基装備するのが普通ですから、今から見れば違和感がありますね。
 この砲は54口径5インチ単装速射砲といわれました。この砲はそれまでの38口径、そして1次防の計画艦「むらさめ(昭和31年度艦)」の54口径5インチ単装高角砲に続いて採用された装備です。
 2次防艦の「たかつき」から採用されました。ここでいう口径とは、弾の直径と砲身長の比率です。だから38口径は2.54センチ×5×38=482.6センチ。54口径は685.8センチとなります。すいぶん細長くなり、最大射程は水上で約2万3000メートルといわれました。対空砲として撃ちあげる場合は、弾は約1万5000メートルに達して、仰角は85度にもなります。

海自の艦船の名前

 「はるな」、「ひえい」と同じクラスの大型護衛艦の名前を聞いて、帝国海軍をご存じの方は巡洋戦艦「榛名」と「比叡」を思い出す方も多かったようです。対潜水艦中枢護衛艦はその後も、DDH143「しらね」、同144「くらま」と続けて建造されています。漢字をあてれば「白根」と「鞍馬」です。いずれも山岳名になります。また、「たかつき」や「はるさめ」といった優美な自然現象などを使いました。
 帝国海軍時代には戦艦は「大和」、「武蔵」、あるいは「長門」、「陸奥」といった旧国名が付けられ、より高速で軽快な巡洋戦艦には山岳名が与えられました。とはいっても日露戦争の殊勲艦「三笠」は奈良の三笠山からとられて山名です。つまり時代によって、命名の基準は変わっています。
 海自では「使用する船舶の区分等及び名称等を付与する標準を定める訓令」といった長い名前の訓令が1959(昭和34)年9月に防衛庁長官から出されます。以後、数十回も変更があり、1980(昭和56)年には、海上幕僚監部総務部長名で「使用する船舶の名称を選出する標準について」という通達が出ました。それも、やはり何回も改定されています。手元にあるのは、古いもので平成5(1993)年のものです。現在と違っていたら、ご教示をいただければ幸いです。

警備艦と補助艦艇

 護衛艦には2種類あります。大きなDDと小型のDEです。いずれも天象、気象たとえば、月、日、雨、雪、霧、霜、雲、四季など。また山岳、河川、地方の名などとあります。DEには河川の名前が多く付けられていました。「もがみ」は山形県最上川、「ちくご」は福岡県筑後川、「おおい」は静岡県大井川などがすぐに頭に浮かびます。
 潜水艦は海象、水中動物の名です。「くろしお」は黒潮、「おやしお」は親潮、そうして「そうりゅう」は蒼龍でしょう。水中動物とはいいながら、「いるか」など平和的過ぎる動物名は使いにくいです。想像上の動物、龍あるいは竜が使いやすいでしょう。
 掃海艦艇は島の名前です。「つしま」は長崎県対馬であり、「やえじま」などの4文字で「しま」がつくもの。そして海峡(水道、瀬戸を含む)とあります。
 哨戒艦艇といわれた小型のミサイル艇などは鳥の名です。今はなくなりましたが、駆潜艇といわれた400トン級のヘッジホッグや爆雷を積んだ艇がありました。「はやぶさ」、「うみたか」などがそれにあたります。
 輸送艦とは帝国海軍も使った揚陸艦艇を指しました。もっとも海自にも昭和46年まで揚陸艦という種別があります。半島の名前です。「みうら」は神奈川県三浦半島、「あつみ」は愛知県渥美半島、「ねむろ」は北海道根室半島からでしょう。
 以上が警備艦、これからは補助艦といわれます。1979(昭和54)年に、それまでの特務艦が改称されました。士気に関わるといった理由からと聞いています。練習艦は古くなった護衛艦などが使われますが、遠洋航海などに使うので、専用の艦を建造したいという希望が高く、「かとり」などが造られます。風光明媚な土地の名です。訓練支援艦は峡谷(きょうこく)の名前、「くろべ」が有名でした。海洋観測艦は海浜(浦も含む)なので「あかし」、「すま」など。音響測定艦は海湾の名で「ひびき」は響灘からです。
砕氷艦は山、または氷河の名とあります。「ふじ」は富士山であることは疑えませんが、「しらせ」の時は小さな騒ぎになりました。高名な南極探検家白瀬のぶ(直を3つ書く)陸軍中尉の名前ではないかと、疑義が出されたのです。しかし、これは結局、白瀬雪原という氷河の地名から採ったと決着がつきました。欧米と違って、わが国では人命を船舶名につける伝統はありませんでした。
敷設艦は岬の名前、1980(昭和55)年の「むろと」は高知県の室戸岬からです。潜水艦救難艦は万一の事故に備える艦で、城の名前です。「ちはや」は楠木正成で有名な大阪府千早城を採りました。同じく「ふしみ」は京都府の伏見城、「ちよだ」は東京都千代田城〈江戸城〉からでしょう。試験艦は文明・文化に関係する土地名、1980(昭和55)年の「くりはま」はペリー来航(1853年)の地、神奈川県横須賀市久里浜が由来です。
補給艦は湖の名前です。「はまな」は静岡県浜名湖、「とわだ」は青森県十和田湖、「さがみ」は相模湾や相模国ではなく、相模湖からでしょう。あと、特務艦にも基準がありますが、転変が激しく、なかなか憶えきれません。

対戦車誘導弾MAT

 陸自の北方機動演習の中に64式対戦車誘導弾が見られます。命中精度がどうしても劣るバズーカやロケットランチャーの代替として、1956(昭和31)年から防衛庁技術研究本部と川崎重工、NECなどが開発を始めました。64(昭和39)年に制式化され、ジープに搭載されます。
 操縦器、眼鏡、電話器、送信器、制御器などから構成され、ジープに載せたまま、あるいは地上に設置します。全長は1メートル、重量が15キログラム、直径は12センチの誘導弾が発射され、弾はケーブルを引いて飛びました。秒速は85メートル毎秒(時速約300キロメートル)という眼で追える速さです。ケーブルは1500メートルでしたから、近距離で使う兵器です。
 眼鏡で照準する照準手の操作誘導で飛びました。無線誘導弾に比べれば、敵の妨害電波にかく乱されないというメリットがありますが、逆に命中するまで照準手は動けません。これは有線誘導による第1世代の対戦車兵器でした。

F4EJファントムが戦列に

 つい先ごろ、ファントム戦闘機がとうとう退役するという報道がありました。わたしのような、あの荒々しいシルエット、強力さを象徴する2つのエンジンと太い胴体に魅了された世代にとっては悲しい知らせでした。
 当時、昭和48年は70年代の中ごろにあたり、米軍でも開発開始(1958年)以来、すでに15年の月日が経っていました。もとは米海軍用の艦上戦闘機でした。それをさまざまな事情から空軍もE型として採用されました。
 この空自のEJ型は米空軍のE型と同じく、M61・バルカン砲式20ミリ機関砲をもちました。しかし、わざわざ政府が行ったのは、「攻撃的な」装備を下ろすことでした。まず、核兵器コントロール装置、爆撃コンピューター、ブルパップ対地ミサイル・コントロール装置、空中給油装置などを外しました。対地攻撃能力をすべて奪ったのです。
 長い航続能力を持たせるような給油装置は他国に脅威を与える。爆撃装置などは攻撃的過ぎる、対地ミサイルなどは自衛隊の専守防衛任務から逸脱する。こういった怪しげな配慮を公然と政治家やマスコミが口にし、文書にする時代だったのでした。
他国とは当然、どこかお分かりでしょう。ソ連、中国、韓国、北朝鮮です。強力な戦闘機があっても、飛んで来ることもない、爆撃もしない、なんと平和的な友好的な「戦闘機」でしょうか。
本来、万能選手であったファントムを迎撃専用戦闘機にしてしまったツケは、国産対地攻撃機F1にも影響が出ました。もちろん、このアタッカー(攻撃機)は名称が穏当ではないろいうことからサポート・ファイター(支援戦闘機)という不思議な呼ばれ方をすることになりました。後に予算不足で定数が充足できないようになりました。爆撃コンピューターがあれば、対地攻撃力の不足を補えたのです。

難しい将来の見通し

 この頃、自衛隊は民生協力、災害派遣の重視を看板に揚げていました。毎年、自然災害が起こるのはわが国の宿命です。公開映像には必ず、大きな災害に駆けつける隊員の姿が残っています。少しでも、国民に親しまれたい、信頼に基づいた防衛基盤をつくりたいといった願いの現われでもありました。
 毎年、大規模に開かれる「札幌雪まつり」の支援が見られます。ただ、そこで自衛官が建設しているのは「天安門」と「万里の長城」でした。日中平和友好の証しでもありました。中国賛美ブームです。田中角栄政権のもとで、日中(とはいえ中国共産党の中共)国交回復といっしょに吹きまくったのが日中友好、それにともなう自虐の嵐でした。
 
 あの時代、中国には過去ひどい迷惑をかけた、毛主席を中心した中国は寛大にもわが国を許してくれた、だからお詫びも込めて援助や借款の申し出も受けなければ・・・という善意が大手を振って歩きまわる時代でした。
 アメリカ・韓国は悪であり、中国は平和を愛する誠実な国であり、北朝鮮は地上の楽園だという報道が当たり前でした。そんな頃の防衛力整備計画が第4次防です。
(あらき・はじめ)
(令和三年(2021年)3月24日配信)