陸軍工兵から施設科へ(62) 安保闘争(1960年)前後

師走になりました

 もう師走になりました。テレビを観ていたら大人の時間の過ぎる速さが話題になっていました。子供の頃は時間の過ぎることがたいへんゆっくりです。大人になるとすぐに時が経ってしまうという話になります。
 それはほんとうですね。ついちょっと前に、今年のお正月を過ごしました。7月に入って1年の折り返しだと思っていたら秋の訪れとハロウィーン、あっと言う間にクリスマスです。ほんとうに時が経つのは早いものだと思います。わたしは来年「年男」です。70有余年を生きて、この20年間がとても速いこと。50代、60代は短く感じます。
その理由は体験に対する受け止め方によるのだそうです。子供はいつもドキドキ、ハラハラ、いろいろなものや事柄に感動と情動があるのだそうです。新しい体験をするたびに子供はいろいろ考える。それが大人になると・・・。トキメキが無くなっているのでしょう。そんなこんなで時が経つのは早いと感じてしまう。
いまさら、いちいちの出来ごとにトキメいてもいられませんが、せめて昔がたりをしてゆきたいと思います。

60年安保改定の意味

 10年ごとに改定されるのが日米安全保障条約です。もともと1951(昭和26)年の調印時の内容は、まったく日米が対等ではなく一方的に米国優位のものでした。それもそのはず(ただし条約発効は翌27年4月)、当時のわが国は占領下にありました。独立を回復するにあたって吉田内閣は「軽武装・経済重視」を掲げてアメリカ軍の駐留、その経費の負担を行なうことを認めます。
 60年の改定は少なくとも、両国の関係を少しでも対等に近づけようとする努力でした。「独立国」でありながら領土の中に外国軍の基地がある。カネを払って外国軍に守ってもらう。それでは国際的にも中途半端な地位しか持てません。新しい条約は「日米相互協力及び安全保障条約」と名付けられました。
 60年の改定でなされた条項の削除と代表的なものとしては、旧安保で定められていた「内乱」の際には日本政府の要請で暴徒や反乱勢力の鎮圧のために米軍が出動できるというものでしょう。警察力では対応しきれない動きに対しての治安維持はこれ以後、自衛隊が担うことになったのです。
岸内閣は周到な準備をしていました。専門書を読めば、1957(32)年6月の日米首脳会談から2年7カ月の間に25回もの公式会談、それに15回の非公式会談を積み重ねています。しかし、アメリカにおんぶに抱っこの防衛方針のままでは対等関係の相互防衛条約にはできません。アメリカ軍が第三国に攻撃を受けたら自衛隊も共に戦わねばなりません。しかし、そうするには再軍備が必要となるでしょう。岸さんはずいぶん悩んでいたことと思います。
相互防衛条約に少しでも近づける。それは今も聞かれる「アメリカの戦争に巻き込まれる」といった思い込みや、「非武装中立」といった夢物語を信じる人々に猛反対を浴びました。もちろん、それに加えて「親ソビエト」という感情や北朝鮮、ひいては中国共産党政権に親しみを感じる人々にとっては現体制破壊に通じるスローガンになり得ました。
 わたしは小学生で60年の現場を見て、高校生で70年安保反対闘争を体感しました。そうしたわたしにとっては、いずれも大人になってからの情報収集で得た感触ですが、いつか歴史になるだろう時代の実態は興味深いものです。

学生集団、国会を襲う

 「安保阻止国民会議」という大げさな、国民の代表を名乗る組織がありました。文化人、その一派の芸術家、大学教員などが構成員の中心でした。ここが全国的大衆闘争をよびかけて6月15日には職場大会やストライキ、デモに合計580万人が参加するといった熱狂状態です。街の商店も「安保反対閉店スト」をするといった有様でした。
 でも、ちょっと調べれば分かることですが、条約の正式な調印がされたのは、なんと1月19日です。したがって後は国会での批准を待つばかり。岸総理は6月19日にはアイゼンハワー大統領も招いて日米関係新時代を広くアピールしようとしていました。
 反対運動も立ち上がりが遅い。この国民会議が結成されたのも3月末で、統一行動の最初も4月中旬。こんなことも自民党政権、岸さんの判断を誤らせたのかも知れません。
 大騒ぎになったのは6月15日です。学生が国会への突入を図りました。正当な投票があって選ばれた国民の総意の表明の場であるはずの国会に、反対の意思表示とはいえ警備官たちの制止をふりきって乱入しようとしたのです。社会秩序への挑戦でした。
これに警官隊が阻止のために襲いかかり、現役東大女子学生が亡くなりました。この悲しい出来事の背景や真実は、のちにさまざまな解説がされましたが、「警官に虐殺された」という言い方にデモの参加者たちはひどく興奮しました。「岸を殺せ」という叫びまでなされ、デモは激しさを増してゆきます。
興味深いことに、それまで違法の行動もやむなしという調子で暴徒をあおっていた新聞が「暴力はよせ、民主主義を守れ」と手のひらを返しました。

なんとなく参加した

 70年安保闘争は運動家と過激派学生が主役でした。多くの人は傍観者だったと思います。新宿駅は火炎瓶が投げられ電車は停まる。御茶ノ水駅周辺は「解放区」とかいわれ、機動隊の催涙弾が飛び交いましたが、日本中の大多数は普通に暮らしていました。いわば、ごく一部の跳ね上がった人たちによる「革命ごっこ」だったのです。
 ところが、この60年安保反対闘争は違います。多くの、さまざまな階層の人たちがデモに参加しました。わたしも父に手を引かれて日比谷のお濠端にいたくらいです。どういう集団の中に、どうしてそこにいたのかは未だに分かりません。
ただ、人々のもつプラカードの中に「ヤンキー、ゴ―ホーム!」という文字が見えて、「アメ公どもは国に帰れ」と叫ぶ声がはっきりと聞こえました。少なくとも「岸を殺せ!岸内閣打倒」という言葉は印象に残っていません。そんなことを言っていたのは国会周辺の学生集団や、職業的革命家だけだったのではないでしょうか。
 後年になって驚いたのは、このときのことを話したり、書いたりする人の多くが、「なんとなく」参加したと言うのです。どうしても黙っているだけではいけない、なんとなく国会に向かったという人が多すぎます。わたしより10歳から15歳の年長の方々です。いまなら80代、90代初めの方々でしょう。
 そうです。もうどうにも動きたい、このままではいけない。つまり、わたしは封印されてきた愛国心の発露だったと思っています。
 そのわけは、翌日から18日まで抗議デモと慰霊集会は開かれましたが、もう19日の安保条約の自然承認とともに一気に政治運動は鎮まってしまいます。この1960年11月の総選挙で自民党は296議席を得て安定しています。社会党は145議席です。民社党は40議席から17議席という惨敗を喫しました。
 やはり多くの国民は「軽武装と経済向上」を掲げる自民党を選んだのです。
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)12月7日配信)