陸軍工兵から施設科へ(50) 幻の弾丸列車計画(3)

英国女王逝去(逝去)される

 マスコミの報道にひどく違和感を覚えたのはわたしだけでしょうか。「英国女王死去!」、死去というのは、故人の身内がいうことだと思っていました。友人のご父君が亡くなって、「逝去」は使いますが、「死去しました」とは言いません。「父が死去いたしました」、「ご父君の逝去をお悔やみします」という会話はあっても、「お父さん、死去したんだって」とは聞いたことがありません。
 事情通にうかがうと、「(わが国の)皇族以外には敬語表現を使わない」という申し合わせがマスコミにはあるようですね。そしてまた、英語の動詞には敬意そのものをこめることがないから、海外からの通信を直訳したまでだ・・・と反論されるかもしれません。
もともと、わが国語には皇族が亡くなると、親王・女院・摂政・関白・大臣には薨御(こうぎょ)という言葉を使いました。また、皇族・三位(さんみ)以上の貴人の場合は薨去(こうきょ)、あるいは薨逝(こうせい)といい、天皇・皇后・皇太后・太皇太后には崩御という言葉がありました。もっと昔は上皇、法皇にもつかわれておりました。
制度的に摂政や関白、三位、古い制度下の大臣はなくなりましたから、薨御は死語となり、薨逝も同じように消えてゆくことだと思います。「薨」という言葉も、「みまかる」という訓がありますが、「みまかられた」という表現もなくなってしまうわけです。
ただ、外交儀礼として、わが国の皇族に準じると思われる英国女王陛下が亡くなられたのなら、せめて「逝去」という言葉は使えなかったのでしょうか。いや、例外は作れないという原則論もあるでしょう。ただ、例外的取り扱いという柔軟な態度はとれないのでしょうか。
それよりも、「せめて逝去を使うべきだ」という人間が少数になっていく現状、天皇・皇后陛下の行幸啓も「お出かけになった」という言い方に変えられてゆく社会の気分、良い・悪いで評価するものではないのだろうなとは思っています。

最高時速200キロで計算せよ

 この「弾丸列車」は最高時速150キロで計画されていました。ところが、青木槐三氏の回顧によると、秩父宮(ちちぶのみや・昭和天皇の弟君)殿下が、世界の趨勢から考えるともっと出せるように、時速200キロメートルで計算しなおしたらどうか言われたとあります。戦後の社会では皇族がこうしたことに口を出すのはあり得ませんが、当時、殿下は参謀本部に在籍され、業務として運輸関係も視野に入れる参謀将校でもありました。そのお立場からの発言であったのでしょう。
 技術陣はさっそく、最高時速を200キロメートルにあげて計算し直しました。欧米の様子をみると、ドイツには時速80マイル(約130キロメートル)を出すフリーゲンダー・ハンブルガアがあります。アメリカにはユニオン・パシフィックのシティ・オブ・デンバーが走っていました。70マイル(約100キロメートル)以上ならば、ハイアワサ、デトロイト・アローなどといくらでもあります。
 ドイツのフリーゲンダー・ハンブルガアは意欲的な流線型の軽量ジーゼル列車でした。1933(昭和8)年5月からベルリンとハンブルクを結んでいました。この頃のドイツは世界大戦後の苦境からの復興気分に力を注ぎ、海にはオイローパやブレーメンという大型客船、海軍にはドイッチュラントを浮かべ、陸にはこの高速列車を走らせていたのです。
 わが国も1934(昭和9)年から大陸の南満洲鉄道、略称「満鉄」では特急牽引用機関車、「パシナ」の設計を始めました。これが「あじあ」号を牽いて満洲を走ったのです。

世界の様子

 20世紀に入ると列車は高速化しました。もっとも、最高速度は100マイル(約161キロ)を超えますが、ふつうの定期列車の速度はそう簡単にはあがりません。1931(昭和6)年には、カナディアン・パシフィックは200キロほどの区間を平均速度で110キロを出しました。翌年には英国のグレート・ウェスタン鉄道では124キロの区間ではありましたが平均時速115キロを記録しています。
 とても興味深い指摘を齋藤晃氏はされました。アメリカ大陸では運転距離が1500キロメートルにもなるし、長距離列車は欧州の3倍以上の重さの1000トンほどの列車が珍しくないそうです。そうであると、速度よりも貨物・物資の積載量が大切にされるということかも知れません。ニューヨーク・セントラル鉄道の有名な「20世紀特急」でも平均速度は時速87キロだったそうです。
 では、満鉄の亜細亜号はどうだったのでしょうか。大連と新京(奉天)の間の701.4キロを8時間半、平均速度82.5キロで走る、これは少しもすごい記録ではないということです。線路条件も悪くありませんでした。急勾配は最大で9.5パーミル、箱根越えのおよそ3分の1、最小曲線半径は600メートル、レールも一部では60キログラム(1メートルあたりの重さ)に強化されています。これまでの東海道本線の特急「つばめ」は時速67.5キロ、満鉄の急行「はと」は同66.8キロでした。

満鉄のパシナ

 パシナというのは蒸気機関車の型式名称です。パシというのは、車輪の並び型が4-6-2、つまり前輪が2軸、動輪が3軸、従輪が1軸のアメリカ規格の形式名パシフィックということを表します。車軸配置では、2C1とも書かれます。
これより大きな形式は、4-6-4のハドソンというタイプです。これは軸重(全重量を軸数で割る数値)を減らすこと(線路への負担が軽くなる)はできますが、どうしても車体が大型化してしまいます。
 そこで「亜細亜号」の牽引機は4-6-2の車軸配置のパシナということになりました。開発順に、イ、ニ、サ、シ、コ、ロ、ナ、ハ、ク、チの記号が付けられました。パシフィック型式の7番目ということです。
 それまでのパシコより動輪直径が15センチも大きい2メートルでした。内地の狭軌用機関車C51のそれが1750ミリですから、ずいぶん大きくなります。石炭の供給も、機関助手による人力では足りず、メカニカル・ストーカー(機械給炭機)が採用されました。軸重も24トンで欧州の機関車よりも外形も大きくなっています。
 では、実際の運転ではどうだったか。最高運転速度は110キロと表示されています。通常運行では120キロを出すこともあったそうです。試運転では135キロを発揮したともいいます。
 こうした技術的な蓄積があったので、当時の鉄道省も弾丸列車に積極的になれたのです。

いまの新幹線は当時の計画線

 歴史はくり返すという言葉通り、鉄道建設は橋梁とトンネルから始めます。東海道線を1889(明治22)年に取りかかったとき、箱根のトンネルと神奈川県の相模川(平塚市と茅ヶ崎市の間)鉄橋が最初でした。弾丸列車も沿線の用地買収と新丹那トンネルの掘削から始まります。
 丹那トンネルは17年間の歳月と、水で苦しみ、崩落事故で多くの人命が失われたものでした。その現行のトンネルと並行して、広軌にふさわしい幅と高さも大きい新丹那トンネルの工事にかかります。新旧で比べてみれば、高さで940ミリ高い7800ミリメートル、幅では1060ミリ広い9600ミリメートルが新丹那トンネルの規格です。
 このトンネルは熱海口から50尺(約15メートル)、三島口は3500尺(約106メートル)を掘ったところで資材不足で工事を中止します。戦争が激しくなれば、当然、計画は中止になりました。
 次回もまた、いまの新幹線の母体になった弾丸列車を話題にさせてください。
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)9月14日配信)