陸軍工兵から施設科へ(42) 函南村畑区の渇水

自民圧勝

 今回の選挙はみものでした。政府与党は圧倒的な得票状況です。しかし、同時にいわゆる旧来からの組織票はあまり伸びませんでした。いや、むしろ防衛関係の票は大きく減り、元自衛官の現職は議席を失いました。わたしは、かなりの防衛関連団体の票が「自虐史観をなくせ」「自衛官の処遇改善をせよ」と主張した政党に流れたのではないかと思います。
 憲法が改正されたらどうなるでしょうか。自衛隊が憲法9条に明記され、防衛予算も増えたとしましょう。では、具体的に自衛官や家族にとってメリットは何か。もちろん憲法違反の存在から日なたの地位が得られる、誇りをもって世間に立てる、それは大変素晴らしいことです。
 しかし、一方、いまの政権与党はもう一つ大事なことをしなくてはなりません。「国家の軍隊」になれば、国際連合の要請で戦場に出ることになるかも知れないのです。また、現状のようなきな臭い情勢では、いつ武力衝突が起きるか分かりません。そんなときに「専守防衛」やら「正当防衛でしか反撃できない」というような縛りを受けたままで良いと思えるでしょうか。
 航空自衛隊のスクランブル(緊急発進)の戦闘機は必ずペアを組んでいます。領空侵犯機には警告射撃などが許されていますが、相手が仲間を撃ち落としてから初めて攻撃ができるのです。同じようなことは陸海自衛隊も同じ。これが専守防衛なのです。
 また、戦死した過去の日本軍人には手厚い補償がありました。勲章が与えられれば、本人や遺族は年金を受け取ることができました(ある時期からは一時金のみになりましたが)。勤務年限に応じた恩給もあり、残された家族にも援護がしっかりとあったのです。
国家のために戦死傷した人には手厚い配慮が必要なのです。名誉と優遇、それがあって初めて戦ってくれと言えるのではないでしょうか。
 また、先週申し上げたように退職自衛官への配慮も必要です。いま、自衛官には任期制と非任期制という2種類の立場の人がいます。任期制自衛官は自衛官候補生という立場で入隊し訓練を受け、陸上自衛官は合わせて2年間の正規隊員となります。海・空は同じく候補生期間を経て、1任期3年の勤務に服します。
 厳しい訓練期間を経て、部隊での教育・訓練をさらに受けます。任期終了時には延長を希望してもよく、あるいは卒業(除隊)してもかまいません。除隊して新しいステージに進む若者たちを私たちは「自衛隊新卒」と言っています。その人たちも安心して任期をまっとうし、民間に進める社会ができることを、政権与党にも、自衛隊応援の皆さんにも実現してもらいたいと願っています。

水が減った丹那盆地

 1925(大正14)年の3月、熱海線建設事務所は、東京の新橋から神奈川県小田原市に移っていました。そこへ函南村(かんなみむら)畑区の区長を先頭に数人の男たちが訪れます。函南村丹那区の隣の区の住民たちでした。トンネルの三島口は同村大竹区にありました。熱海からの汽車賃30銭を節約するために三島から山を歩いて越えてきたのです。
 所長への嘆願書には昨年のボーリング調査以来、湧水が3分の1になったとありました。飲料水も井戸水も減り、水車の動きも鈍くなったというのです。水田は山の斜面に棚状にあるがそこも水量が不安のようでした。事務所はただちに現地に向かい実情を調査する吏員を派遣しました。
丹那盆地の中央には柿沢川、平行して南に谷下川が流れています。調査をしましたが原因は分かりません。梅雨の季節の6月半ば、とうとう丹那区の住民が事務所にやってきました。丹那区も渇水がひどく、夜になると地中からダイナマイトの音が聞こえるというのです。
10月末、丹那区に入った所員はさらに詳しく調査しました。丹那区の戸数は98戸、
人口は704名、牛馬271頭、水車8、井戸75でした。産業は水田耕作を主としながら乳牛を飼ってしました。搾った生のミルクは三島町へ運び、ミルク会社や製菓会社などに納めています。米や野菜や鶏卵は熱海方面に運んで換金していました。豊富な水を使ってワサビ田を作り、小田原、東京方面に出荷している家もありました。
しかし、深刻な渇水は畑区で起きていたのです。

新しい工法

 1926(大正15)年12月25日、大正天皇は崩御されました。すぐに1927(昭和2)年の正月がきました。熱海線建設事務所は2月から熱海に移ります。熱海口も三島口も大量の土砂と地下水が流出し、トンネル工事は中断していました。鉄道省内にも悲観論が出てきて、工事の続行は愚かなことだという新聞論調も厳しくなってきました。
 3月には若槻礼次郎内閣の大蔵大臣の失言があり多くの銀行が倒産・休業、4月には三井、三菱に次ぐ大商社の鈴木商店が倒産します。鈴木商店と関係が深かった台湾銀行も休業しました。これを金融大恐慌といいました。このときに内閣を組んだのは政友会の田中義一(たなか・ぎいち)でした。田中は陸軍大将で長州閥のエリートです。
 世界大戦(1914~1918年)のおかげで好況となった日本経済、その後の不況がありました。有名な平民宰相といわれた原敬は積極的な経済政策をとり、おかげで財政はふくれあがり、企業も合理化を怠り国際競争力は低下する一方でした。その後、高橋是清内閣は緊縮財政、加藤友三郎内閣も財政整理に力を注ぎます。輸出はふるわず、銀行融資も焦げ付きが多かった時代です。
 熱海口では断層の中にセメントを注入することにします。海底炭鉱で使われている工法でした。三島口では9月から空気掘削という方法をとり始めました。切端に近い箇所に頑丈な門を造り、奥の坑道に圧搾した空気を注ぎ気圧を高めます。坑内作業員は途中の室内で身体を慣らし切端に近づいて行きました。
 効果はてきめんでした。水の噴出はなくなりました。しかし、同時に空気も地中に吸い込まれていくのです。坑道の天井や壁にはすぐにセメントを張るようにしました。当時の作業の時間が吉村氏によって明らかになっています。
 30分、高圧空気の中で作業すると坑夫はただちに外に出ました。興奮剤としてコーヒーを飲み、門外の風呂に入ります。3時間の休息のあとに再び30分の作業をします。それで1日は終わりました。
 しかし、この3月、事務所には畑区の住民が20名近くも嘆願にやってきていました。
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)7月20日配信)