陸軍工兵から施設科へ(36) 丹那トンネル掘削の難航

ご挨拶

 さまざまな規制もゆるくなり、外国人観光客の入国も増えるようです。円安も加わり、外国からのお客さんを迎えるチャンスでもありましょう。観光地や、関連する宿泊、飲食施設の皆さんには、またまたひと頑張りいただきたいと思います。
 ウクライナ情勢も先行きがますます不透明になってきました。兵器・弾薬などもウクライナ軍に次々と供与され、ロシア軍の苦戦も続きそうです。わが国の防衛についても投入される予算が増えてゆくとのこと。それはそれで結構なのですが、若者の数が減って行く少子化への対応、退職した自衛官、隊員の就職援護はどうなのでしょうか。
 不景気になれば企業の中途採用も減ります。経済活動が鈍れば、退職した人への支援も厳しくなってゆくでしょう。そこでわたしは素人考えでありますが、自衛官への奨学金を制度化することを提案します。少なくとも2年間の専門学校、あるいは短大、4年間の大学に進めて、勉強に専念できる金額の支給です。
 いまや生涯学習社会といわれるようになってから30年、一世代が経ちました。「自衛隊という学校」で4年間の任期(あるいは6年)を務めあげた人には、さらに可能性を広げるために、大学や専門学校への就学の機会を増やしていただきたい。同じく少子化に苦しむ高等教育機関とうまく提携できれば難しい話ではないと思います。
 さらに言えば、もともと教育学は基本となった学問の上に積み上げるものという見方も古くからありました。仲間との連携を大切にし、健全な国家観や社会観をもった20代後半の若い先生が増えるのは、問題山積の学校教育現場にも有益に違いありません。
 他国の防衛費などには退官した軍人への恩給なども含まれているようです。どうか、増える防衛予算が、装備品の取得や更新ばかりに議論が進まないようにしていただきたい。現職や退官した自衛官、隊員の皆さんへの投資も忘れないで欲しいです。

大正9年までの物価上昇

 1919(大正8)年は「スペイン風邪」の大流行がありました。「流行感冒」と名付けられ15万人の生命が失われます。翌20年1月に志賀直哉は雑誌「白樺」に短編小説を発表しました。「小僧(こぞう)の神様」です。
いまの若い方々とは異なって、70歳前後のわたしたちの世代は、いわゆる読書傾向の積み重ねがありました。小学校の図書室には世界文学全集、偉人伝などがあり、志賀直哉、山本有三などの戦前から活躍した作家たちの全集などもそろっていました。
「小僧の神様」は東京神田の秤屋(はかりや)にいた小学校出の小僧である仙吉(せんきち)が主人公です。ははあ、向田邦子さんは自伝的な作品群の中に父親を「水田仙吉」という名前で登場させたのはこれかなと後になって思いました。
ある日、仙吉は奉公先の番頭さんのお使いをします。往復の市電の料金は8銭、ざっと現在の300円くらいでしょう。片道を歩いて4銭を浮かせて、屋台のすし屋で海苔巻きを1本食べようとします。当時は、店を構えた「華屋与兵衛(はなや・よへい)」などが有名でしたが、鮨屋は江戸時代からの屋台店も多かったようです。
 屋台でマグロを食べると1貫4銭でした。「マグロを1つというのも恥ずかしい」と12、3歳の子供らしく海苔巻きと思っていたのです。ところが、海苔巻は今日にかぎってできないといわれ、仙吉は思わずマグロに手を伸ばします。主人は言います。「1つ6銭だよ」。
 仙吉は手をつけたマグロをそっと戻すと逃げるように屋台から離れました。ところで、現在の「回転寿司」では米1合(150グラム、炊き上げるとおよそ360グラム前後と思われます)で何貫なのでしょう。わたしが子どもの頃は1合で10貫くらいだった記憶があります。大人になって食べた有名店では16から17貫くらいでした。
 それが戦前の社会では1合で5、6貫くらいというのですから大きかったのでしょう。この仙吉が顔を出した屋台では、米だけで60~70グラムの寿司を出していたわけです。それが仙吉の記憶の中では4銭(約160円くらいか)だったのが6銭(240円同)になっていたのでしょう。
 大正8年までは過熱景気でした。物価も上がり、1917(大正6)年から急上昇、1920(大正9)年には1914年の2.8倍にもなりました。好景気とインフレです。米価は大正8年、高止まりしています。仙吉が4銭だと思っていたのは、大正6年の水準でした。
 この景気は「小僧の神様」が発表されてから約3カ月後、突然の終わりを告げました。3月15日、株は大暴落します。16、17日には東京証券取引所が閉鎖されました。世界大戦後の恐慌でした。
 この頃の生活の一端を示す資料があります。東京府では住宅を販売します。1500円から3800円の建売住宅です。1円を4000円とすれば、600万円から1500万円ほど。家賃住宅は月6円80銭、これも現在価格で換算すると、約2万7000円ほどでした。東京市街自動車(青バスと呼ばれた乗合バス)の女性車掌さんたちの月給が35円(現在価14万円ほどか)、タイピスト組合が要求した最低給与が月額50円(同20万円)です。

鉄道の人たち

 1920(大正9)年、戦後不況の始まりから約2カ月。それまでの鉄道院が省に昇格します。1908(明治41)年に内閣鉄道院とされていましたが、このとき鉄道省となりました。鉄道省は国有鉄道の経営のほかに、私有鉄道や自動車事業の監督行政も行なっていました。
 ついでにこれからの説明にも大切なので、当時の人事制度も説明しておきます。特有の
官名として鉄道監察官、奏任官(キャリア)としての鉄道局参事・副参事というものがありました。また、判任官待遇の鉄道手という名称もありました。参事や副参事というのは現業官庁の事務系統奏任官(高等文官)の名称でした。
 各地にあった鉄道局の課長が参事、掛(かかり)長が副参事。鉄道局の下にあった運輸事務所長、主要な駅長が副参事でした。判任官以上は正規の官吏でしたが、現場には多くの雇員(こいん)や傭人(ようにん)といった立場の従業員も多くを占めていました。
 雇員は中学校3年以上修了の程度、実業学校(中学と同じく中等学校で工業・農林業・商業など)2年半以上修了の者が採用されました。また、傭人を5年以上勤めた者から選ばれます。傭人は小学校卒業程度以上から採用しました。線路の保線見習、機関庫の庫内手などから始めました。
 昭和初年当時の徴兵検査時の壮丁学歴別調査では、高等教育卒業と同等が5%、中等学校卒業程度が15%ほど、高等小学校卒業程度は40%、尋常卒が40%といったところです。鉄道手といわれた判任官待遇の立場は現場の雇員の老朽者への優遇施策でした。
 『日本国有鉄道百年史』(1974年、交通協力会)によれば、事務系雇員の月額給与が最高で85円、傭人は日額で最高が駅手(駅内勤務員)で1円80銭、電力工手が2円50銭です。この頃のインフレを加味して、1円をいまの5000円とすれば、月給85円は約43万円、電力工手は25日の勤務として月額32万円というところでしょうか。
 1935(昭和10)年の鉄道省職員の総数が21万8352人でした。うち勅任官が25人、同待遇者が9人、奏任官857人、同待遇者が190人ということです。軍隊でいえば将校同相当官が合計で1081人、全体の0.5%でしかありません。
 下士官にあたる判任官が2万3688人、同待遇者が6681人の合計3万369人で全体の約14%、兵卒になる雇員は8万5035人、傭人10万1512人とそれぞれ約39%、同46.5%という数です。
 
 管理機構として本省には建設事務所、改良事務所、教習所、鉄道病院がありました。各地方に鉄道局(大阪、名古屋、門司、仙台、札幌など)があり、各鉄道局には運輸事務所、保線事務所、電力事務所、出張所などをおき、停車場や機関庫、信号所などは運輸事務所に属していました。
 鉄道の技師は当然、大学出や専門学校卒業者が多く、その地位の高さは鉄道人の中でも際立っていました。
 次回はいよいよ丹那トンネル掘削中の落盤事故の悲劇をお伝えします。
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)6月8日配信)