陸軍工兵から施設科へ(39) 生存者救助と工事続行

横須賀基地

 好天の猛暑、25日の土曜日に公務で上京された大阪の知人のお伴をしてきました。京急急行の汐入(しおいり)で電車を降りて、JRの横須賀駅に向かいます。右手には旧海軍の上陸場の衛兵立哨所が残っていました。
整備された海沿いのベルニー公園からの眺望は素晴らしく、青空に映える軍艦(自衛艦)旗は美しいとあらためて思います。海自の地方総監部の前には、艦番号がロービジ(識別しにくい)塗装されたイージス搭載護衛艦がいました。その向こうには遠く離れて、FFM(「もがみ」型護衛艦)のマストが2つ見えています。
 セイル(艦橋)の白い艦番号も艦尾の艦名表記も消された潜水艦が2隻いました。潜舵がV字型になっているので新しいタイプだと想像がつきます。岸壁が工事中で、沖合に近くなる別の場所に、さらに2隻の潜水艦がいました。いずれも艦番号はなくなっています。
 横須賀の街は明るく、米海軍人や軍属の家族と思われる人たちでも賑わっていました。その中で、ひときわ目立ったのが純白のセーラー服でした。帽子のペナントには「横須賀教育隊」の金文字があり、右そでには2等海士の1本線と桜の徽章。海曹候補生でした。多くがグループで歩き、出会うと互いにキリリと敬礼を交わしていました。その清々しさが心に残ります。
 また純白といえば防衛大学校の学生もいました。外出時に制服だから、4月に入校したばかりの1学年生でしょう。もう70期生にもなりました。彼らもしつけが行き届き、横浜方面に向かう京浜急行の車内でも座席に座らず、健気に立ち続けています。
 大阪から見えた知人は、制服をこれほど見ることは京阪神にはないと驚かれていました。また、それぞれの隊員たちの明るい表情に感銘を受けたようです。

ついに遺体発見

 4月3日の午後1時ころ、第1救助坑を進んでいた坑夫が生存者を発見しました。しかし、トロッコのレールや支保工の残骸にからみつかれ救出はできません。入口からわずか7メートルの地点でした。この被災者は出血多量などで亡くなりました。
 翌日4日には最上部の第4救助坑にダイナマイトをかけることにします。結果は成功で前進を妨げていた巨石はみごとに砕かれました。ところが、左右や下部の第1から第3救助坑では、その爆発による被害が出ています。技師たちは、もう2度とダイナマイトは使えないと決断しました。
 さらに問題が発見されます。送風用の鉄管が接続部分の装甲ゴム管の部分で押しつぶされていたのです。鉄管信号も通じなかったわけでした。また、新しい空気も送りこめていないことも明らかになりました。事故現場には有毒ガスもあるかも知れないし、空気中の酸素濃度も低くなるでしょう。救助活動はなお急ぐ理由ができました。

17名の生還

 救助坑の進度について吉村氏の叙述は厳しい数字をあげています。中央下部の第1救助坑は毎時15.2センチ、左側の第2同は同じく12.2センチ、右側で同27.4センチ、第4坑も18.3センチでした。どれほどの崩壊距離があるのか不明のままです。すでに閉じ込められた者たちの生存は絶望的なものと考えられましたが、誰も諦めはしませんでした。
 報道陣も色めき立っています。もともと丹那トンネルの工事に反対が多かったのです。無謀だ、無茶だ、国庫の無駄遣いだ、御殿場回りの在来線の電化を急ぐべきだ、多くの反対意見がありました。
 わが国初めてのトンネル崩壊による犠牲は1880(明治13)年に完工した逢坂山(おうさかやま)トンネルでした。全長は約665メートル、坑夫2名、作業員3名が亡くなりました。それ以来、殉難者が出るような事故はありません。それが丹那トンネルではすでに3名の犠牲者が出ています。報道陣が興奮するのも当然です。
 その頃、現場では17名の鉄道工業社員たちが生き残っていました。食物もなく、連絡手段もない暗黒の中でした。しかしそこには有能な2人の指揮者がいたのです。1人はその後、同社の副社長にもなった飯田氏で、また戦後に工事会社の経営にたずさわり参議院議員になった門屋氏でした。2人は冷静な判断を維持し、坑夫、作業員たちへの優れた統率力を発揮されました。
 4月8日、午後9時。第4救助坑(最上部)に穴が開きます。さらに11時、崩れそうになる箇所をさらに頑丈にしたところで、右の第3救助坑も貫通しました。救助隊は若い技手を指揮者にして4名の屈強な坑夫が選ばれます。たぬき穴と言われたように小さな救助坑、そこを這って進みました。27メートルあまりを進んでところで、技手は水が深くたまるトンネルに入りました。そこに17人がいたのです。

死を覚悟した者の意見書

 救助された遭難者のリーダーである2人は日誌を残していました。その中に鉄道省の工事指導への批判があります。この内容は、1964(昭和39)年の青木槐三氏の『国鉄』にも書かれていますが、吉村氏の取材でさらに詳しく分かりました。
青木氏は著書執筆当時、鉄道記者の大重鎮でしたが、若い当時、丹那トンネル工事の大批判者でした。だから、当時を知る人の証言だからといって、そのまま鵜呑みにはできません。細かい事実がずいぶん省かれています。
 衝撃的な内容を日誌に残したのは吉村氏によれば門田氏です。門田氏によればトンネル崩落原因は3月31日の小さな土の崩れではないか、そこを応急処置的に埋め戻した結果が事故につながったというのです。
 また、トンネルの坑内が炭鉱に比べても劣悪な環境にあることを指摘しています。排水溝こそあったものの、電燈もなく、ケーブルもないから電話がない、送風管も1本しかなかったことをいい、鉄道省は費用を惜しむあまり安全面をおろそかにしたと言うのです。
 また、複線型の大きなトンネルを掘ったのが失敗だったと続けました。単線型の2本を掘れば、こんなことはなかったと断言します。複線型を掘るなら新しい技術をとるべきで、それを従来型の方法で行なったのが間違いだったというのです。
 飯田氏も同じような日誌を書きました。そして救助法にも非難の言葉を書いたのです。

遺書がスクープされた

 2人の日誌は医師団によって見つかりました。坑内の生活を知ることで的確な治療方針を立てるためです。一読した工事事務所長の富田氏は驚きました。とくに「複線型が失敗の原因で、単線型2本にすれば事故は起きなかった」という部分です。これは飯田氏の日誌からもちろん、事故によって閉じ込められた異常な環境にあったとはいえ、当事者の本音でした。富田氏はこれを隠すことにします。
 新聞記者たちには、飯田氏の日誌の中から鉄道省への批判部分を削除した内容が渡されました。ところが門屋氏の日誌は、遺書とされたものとは別の段ボールに書かれていました。その中身は、鉄道省への批判もまた激烈なものでした。
 その段ボールに書かれた日誌を門屋氏は友人に渡しました。重要なものといわれた友人は、たまたま坑内に入ってきた三島警察署熱海分署の署長に渡してしまいます。その署長が分署にもどって、不用意にも自分の机上にそのまま置きました。
 その遺書と批判文を、たまたま室内に無断で入った新聞記者が発見します。昔から新聞記者は報道のためには手段を選ばないものです。また、ふだんから警察署内にも自由に出入りしていたのでしょう。
 これが大スクープになりました。
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)6月29日配信)