陸軍工兵から施設科へ(5) 士官生徒の時代
ご挨拶
はやくも霜月、7日には立冬となりました。これから本格的な冬がやってきます。寒さにともなって、コロナ禍はいっこうに警戒を緩めることができない様子です。おかげさまで、身近なところに感染されたという方はまだ聞かれませんが、これも国民がみな協力してマスク着用、外出自粛などに励まれているからでしょう。
産経新聞を読んでいますと、在フランスの方からの情報が載っていました。フランスのコロナ爆発の話です。まず、わが国と比べるとフランス社会には大きな特徴があるとのこと。握手ばかりかハグ、顔を接近させて親愛の情を表す習慣、そして手を洗わないという常識があるとのことです。また、いわゆる個人主義で、統制に服さないという国民性があるとのことでした。
そういえば、フランス風を導入したわが陸軍、その背景にある個人主義にはずいぶん困ったらしいのです。自主・独立の気分、フランス革命以来の反権威、統制に反発する気質、これらに支えられたフランスの文化が移入されたのです。初期の軍学校では士族出身の生徒が多く、その自尊心の異様な高さや、自主・独立の気分がひどくて、これらが相まってたいへんだったそうです。
フランス社会の現状の一端を教えてもらい、初期の陸軍の混乱を思い出しました。
士官生徒時代始まる
市ヶ谷校舎の落成は1878(明治11)年6月になった。西南戦争のおかげである。学校長は曽我祐準(そが・すけなり)少将だった。この人は福岡県柳川の出身であり、明治16年に中将に昇任、その後参謀本部次長、陸軍士官学校校長(明治19年)などと務めたがドイツ制式への反対を強硬に主張した。そのため陸軍中枢から追われ、宮中顧問官、貴族院議員、枢密顧問官などを歴任することになった。
次長は保科正敬(ほしな・まさたか)大佐、教頭は武田成章(たけだ・なりあき)大佐だった。武田大佐は幕末の兵学者でフランス築城学を生かして、北海道の五稜郭(ごりょうかく)を設計したことで有名な人物である。この落成式の日に、武田と理科の教官たちが工夫して軽気球を揚げたと松下博士の著書にある。
士官生徒の2期生は、1876(明治9)年に入校し、79年2月1日に卒業し、少尉に任官したと松下博士は書いている。ところが、『陸軍士官学校史』によれば1878年12月に卒業とある。砲兵・工兵少尉はそのまま在学して修学を続けた。これを「生徒少尉」といったことは前回にも書いた。
この期は、のちの有名人がそろっている。136名が卒業し、その内訳は歩兵91名、騎兵はなし、砲兵が32名、工兵は13名になっている。なお、輜重兵科は1899(明治32)年卒業の士官候補生第11期からしかいない。
日露戦争で活躍する士官生徒世代
最も有名な第2期士官生徒出身者といえば、田村怡与造(たむら・いよぞう)だろう。旧姓は早川である。山梨県出身だったので「今信玄(いましんげん)」といわれた。戦国時代の英雄、武田信玄の再来だというのだ。それほど剛毅(ごうき)で頭脳明晰だったらしい。
日露戦争の直前、1893(明治36)年に病に倒れ死去、中将に昇任する。対ロシア戦争の準備が命を縮めたという。ドイツに留学すること5カ年半であり、日清戦争では大本営兵站監部参謀、第1軍参謀副長として出征、駐ドイツ武官、参謀本部次長を務めた。このときに病死してしまった。
井口省吾(いぐち・しょうご)も有名である。砲兵で、静岡県出身。1916(大正5)年に大将に親任された。日清戦争では第2軍参謀(作戦主任)、参謀本部勤務、陸軍省軍務局砲兵課長、兼ねて軍事課長、日露戦争には満洲軍参謀(兵站)として出征した。戦前には2期後輩の松川敏胤(まつかわ・としたね)とともに参謀本部部長となり、田村次長、つづいて児玉源太郎次長を補佐して作戦準備を進めた。
大谷喜久蔵(おおたに・きくぞう)も閥外人である福井県出身歩兵、しかも大阪鎮台彦根分営(滋賀県彦根市)に入営し、兵から士官学校を受験した苦労人だった。1916(大正5)年には大将に親任された。日露戦前、1902(明治35)年に少将となり、歩兵第24旅団長、日露戦争では師団、軍の兵站監を務めた。戦後は戸山学校長、教育総監部参謀長、本部長を務める。最後の実戦指揮は1918(大正7)年のシベリア出兵の派遣軍司令官だった。
司馬遼太郎氏による『坂の上の雲』で無能な第3軍司令部参謀長とされた伊地知幸介(いじち・こうすけ)中将も同期生だった。砲兵、鹿児島県出身である。日清戦争では第2軍参謀副長、1900(明治33)年4月に少将になる。これはのちに大将となる井口や大谷がそれぞれ明治35年5月、同6月と比べると2年も早く将官になったという優秀さである。これが頑固で、自分が第一人者だと威張っていたと描かれて、ずいぶん損をしている。実像はまた別のようである。
実戦指揮で有名になった大迫尚道(おおさこ・なおみち)は砲兵出身の大将だった。日清戦争前にはドイツ駐在の経験もある。大迫3兄弟は有名な軍人ばかりである。長兄は尚敏大将、次兄は西南戦争で亡くなった尚克大尉だった。尚道は薩摩閥であるから御親兵から幼年学校へ入り、そこから士官学校に進んだ。
砲兵科では4位の成績で卒業。1883(明治16)年には砲兵中尉、86年には陸軍大学校教授になり、自身は大学校を卒業しない。89年に砲兵大尉でドイツ留学、91年には少佐でまた渡欧、ドイツ公使館付きになった。日清戦争には野砲兵第1聯隊大隊長だったが8月には第1軍参謀として出征する。その後、野砲兵第3聯隊長などを務めた後、1901(明治34)年6月に少将となって日露戦争には第2軍参謀長として勤務する。
大将にはなれなかったが、長岡外史(ながおか・がいし)中将もこの期である。山口県出身の歩兵、陸軍大学校第1期生だった。1902(明治35)年6月少将になる。この人も晩年のプロペラ髭で有名になった。いまも新潟県上越市に残る第16師団長官舎は、彼が建てた西洋式建築として有名である。また、日本航空界の育ての親としても高名であるが、若き頃、二宮忠八薬剤生(薬剤部下士)の提出した飛行機の研究に冷たい態度をとったことを悔いていたというエピソードもある。
各兵少尉になった3期生
1879(明治12)年12月22日に少尉に任官したのが第3期生である。この期は優秀な人が日露戦争では少将であり、騎兵の秋山好古大将がいる。大将を多く出した期であり、卒業生は歩兵64名、騎兵3名、砲兵7名、工兵15名のうち、大将が5人も出た。
秋山は1883(明治16)年に中尉に昇任し、翌年、陸軍大学校へ入る。
この期から、兵科の呼称を階級名の前に入れるようになった。昭和15年の兵科撤廃まで、陸軍砲兵中尉、陸軍騎兵大佐などというようになる。
本郷房太郎(ほんごう・ふさたろう)は歩兵で丹波篠山藩士の子、内山小次郎(うちやま・こじろう)は砲兵で鳥取藩士の子、柴五郎(しば・ごろう)は福島会津藩士の子、そして工兵の父と呼ばれた上原勇作(うえはら・ゆうさく)は宮崎都城藩士の子と、愛媛松山藩士の子である秋山の5人の大将である。
こうしてみると、長州出身者はおらず、維新の雄藩どころか、賊とされた会津藩士、松山藩士の子が大将にまで栄進している。明治陸軍は、それなりに能力主義であったのだ。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和二年(2020年)11月11日配信)