陸軍工兵から施設科へ(17) 気球から航空機へ
はじめに
オミクロン株が大流行、さまざまな情報があふれ、「専門家」のお話ばかりが精選されずに垂れ流されていると言うとお叱りを受けそうです。大変なのは医療体制のひっ迫、医療関係者の方々の窮状でしょう。重篤化された方や亡くなった方々には申し訳ないのですが、列国と比べるとずいぶん安心できる状況とわたしは思います。
心配なのは、またまた引き締めがされて、親しい人たちと飲食を共にできないこと、ゆっくりと話し合えないことです。わたしは小学生の頃、「雨ニモ負ケズ」で有名だった宮沢賢治さんの伝記を読みました。そのときに心に残ったことは、賢治さんの次の言葉です。
「わたしは人が食事をしているのを見ると、その人を決して憎めなくなる」というものでした。正確ではないかもしれませんが、他人と飲食をすることの大切さをよく表していると思うのです。「生物としての宿命」を負うわたしたちは、食事をするときにはほんとうに無防備であり、他人に飾り立てた自分を見せなくなります。
ローマ時代に、飲食を共にしながら話し合う、それがシンポジウムの言葉の起こりだと聞きました。他人と会話しながら、食事を摂る、これができなくなってからどれだけ経ったのでしょうか。このことによる、他者との関係について心配になっています。
さて、今回は工兵と航空の関係です。
代々木原の快挙
1910(明治43)年12月19日、徳川好敏(とくがわ・よしとし)工兵大尉と日野熊蔵(ひの・くまぞう)歩兵大尉が、エンジン付きの航空機で空を飛びました。場所といえば、渋谷区代々木公園です。いまも「航空発祥の地」という碑が建っています。アメリカのライト兄弟の初飛行から7年後のことになりました。
徳川工兵大尉は、その苗字から分かるように、日本史教科書を読めば必ず出てくる徳川御三卿、一橋(ひとつばし)伯爵家の嗣子(しし)に生まれました。1884(明治17年)「華族令」が制定された時に、紀伊・尾張・水戸の御三家は、それぞれ侯爵になり、御三卿といわれた清水・田安・一橋家は同じく伯爵を授与されました。徳川宗家は公爵ですから、序列は厳しいものです。
ところが、華族家の中には生活に困って、格式を保てないということから爵位を返上する家もありました。徳川大尉は父親が1899(明治32)年に爵位を辞退したために華族ではなくなったのです。大尉は1884(明治17)年生まれですから、高等師範附属中学校(現在の筑波大学附属高校)に在学中のことでした。陸軍士官学校を目指して、士官候補生第15期生として卒業します。兵科は工兵でした。
日野熊蔵歩兵大尉は1878(明治11)年、九州の人吉出身。相良中学出身で、熊本英学校で学び陸軍士官学校第10期生として卒業、歩兵第2聯隊で任官します。銃器や兵器に関心が高く、1904(明治37)年には「日野式自動拳銃」を発明しました。
地下鉄代々木公園駅で降りて、公園西門から入って南方向へ歩くと、碑と2人の胸像があります。
フランス製気球・工兵第一方面に
わが陸軍も気球には高い関心をもっていました。まず、西南戦争(1877年)に使おうとしますが、偵察用の軽気球がなかなかうまく行かず、実戦には間に合いませんでした。気球を連絡用に使おうと考えたのは、普仏戦争(1870~71年)でパリに籠城するフランス軍がドイツ軍に囲まれた中を気球で友軍に連絡をとったということからでしょうか。
もちろん、連絡用だけでなく、敵の手が届かない高度から周囲を偵察することはひどく便利なことでありました。1891(明治24)年のことです。研究員をフランスに送ろうということになり、パリのヨーン軍用気球製造所から完成品一式を買い上げました。
国内に持って来られた気球とその繋留車、ガス発生機などは当時の「工兵第一方面」に渡されて野戦用繋留気球として研究を続けることになります(『日本の軍用気球』佐山二郎氏・光人社NF文庫)。この工兵第一方面とは何か。調べてみると、1879(明治12)年の「陸軍職制」をみると、砲兵方面、工兵方面という言葉があります。
その文書を読むと、「砲工二兵は、おのおのその管地を分けて、兵器弾薬の貯蔵、建築の作業を区処する」とあります。各方面はその兵科の大佐、もしくは中佐を「提理」として砲兵は武器弾薬庫を管理する、工兵は方面の中の工事を指導・監督させるというのが概要説明です。
そうして1889(明治22)年の「工兵方面条例」をみると分かりました。「工兵方面は要塞(ようさい)堡塁(ほうるい)砲台及附属営造物の建築修繕監視その他の、これに関する工兵事業をつかさどる」とあり、工兵方面は2つに分けるとありました。
第一方面は本署を東京に置いて、第1、同2、同3師管と北海道を管轄する、第二方面は本署を大阪に置いて、第4、同5、同6師管を管轄するとあります。東日本の工兵に関する最高官衙(かんが)であったわけです。要塞などの建造物は工兵、そこに置かれる備砲や兵器は砲兵方面が担当するといったことが分かります。
陸軍工兵会議と気球隊
今度は工兵会議です。1896(明治29)年には航空機の研究が必要だとされました。なお、航空機とは気球、飛行船やエンジン付きのもの、グライダーのような無動力なものすべてを含みます。
工兵会議とは、1891(明治24)年の条例にありました。工兵器具材料、国防に関する工兵事業と工兵の教育や技術について審議・議定する組織です。議長は工兵監でした。あくまでも会議ですから官衙ではありません。ただし、陸軍大臣に直隷し、その諮問に応じる組織です。
会議はきたる日露戦争に備えて研究を始めます。1902(明治35)年参謀本部は気球隊の編制を定めました。初めは気球隊を鉄道隊に付ける計画でしたが、独立隊になります。ただし、管轄者は近衛師団長となり経理や衛生を統括されました。
平時の気球隊は1個隊だが、戦時動員では3個隊になる。平時にはガス製造所を設ける。平時の気球隊には毎年、全国の工兵大隊から士官3名を分遣する。気球に関する学術を修めたこの士官たちは戦時の要員となる。動員された気球隊は、野戦気球隊とガス縦列で編成される。縦列とは中隊規模の支援部隊です。戦時の気球隊は、凧(たこ)式気球2個、球状気球1個を保有する。
気球隊の指揮官は工兵中(少佐・大尉でも可)佐、それに工兵中(少尉も可)尉2名、曹長1名、軍曹8名、上等兵9、1・2等卒が60名でした。また、輸送員という運搬専門集団がいます。砲兵下士1名と同上等兵4、同1・2等卒32名、砲兵輸卒が6名です。これに隊付の看護長(衛生下士)、看護手(のちの衛生上等兵)、計手(経理部下士)、馬卒が各1名ずつ、合計で定員は129名でした。
この下につくガス縦列は工兵中尉もしくは少尉の長と下士4名、兵卒20名、輸送員その他が49名の合計73名でした。つまり気球隊は212名になりました。
車輌がまた興味深いです。輓馬4頭でひく気球車1輌、ガス管車6輌(各4頭の輓馬)、そうして汽動轆轤(ろくろ)車が2輌(輓馬各6頭)、これに炭水車1輌(輓馬4頭)です。
汽動ですから蒸気機関、炭水車がついているはずでした。轆轤は上昇した気球を降ろすためのものです。
次回は工兵の戦いの一部、日露戦争の気球隊の様子を知りましょう。
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)1月19日配信)