陸軍工兵から施設科へ(18) 臨時軍用気球研究会の発足
ご挨拶
またまた今度はオミクロン株の大流行。皆さまも警戒されておられることでしょう。それにしても諸説が入り乱れています。わたしの友人の感染症専門家によれば、今月末には感染者数もピークを迎え、2月には急激な下降を示すとか。おそらく政府のとる蔓延防止措置なども予定通り、中旬には解除されるのではないかと言います。とにかく、経済のことも考えなくてはなりません。早く、ウィズ・コロナという世の中にしたいものです。
初期の航空界の動きも面白く、工兵からちょっと話題がずれることもあるかとも思いますが、ご勘弁ください。「飛行機乗りにはお嫁にやれぬ 今日の花嫁 明日は後家」などと埼玉県所沢(現在の入間基地)のあたりでは歌われていたとか。いまは誰もが気軽に空の旅を楽しめますが、100年ほども前は飛行機は危険きわまりないものでした。
日露戦後の検証
佐山二郎氏の『日本の軍用気球』によりますと、日露戦争では旅順要塞攻略戦に気球が使われました。港内の観察にはたいへん有効だったそうです。その時代、自由に飛行する武装した航空機は、お互いにありませんでした。「制空権」という言葉もなかった頃です。
ロシア軍も気球をあげて、わが方の行動を監視しました。その気球を砲兵隊が撃ったそうですが、距離は1万2000メートル、高度600メートルだったといいますから、当時の野砲ではとても届かなかったのです。
東京中野にあった電信教導大隊の中に気球班が置かれたのは1905(明治38)年10月のことでした。工兵大尉が長となって、研究を始め、毎年5名の工兵将校が全国から集められ研修に励みました。以下、佐山氏のご著作から多くを教えられたものです。
砲兵隊との協力も、千葉県下志津にあった野戦砲兵射撃学校、横須賀の野戦重砲兵射撃学校の教官たちが実用化に向けて熱心に取り組みます。のちに3度も砲兵監になる山室宗武砲兵大尉、東京湾要塞司令官や砲工学校長になる弘岡好忠砲兵中尉、野戦重砲兵第1聯隊長や津軽要塞司令官になる広野太吉砲兵中尉などの「砲兵科の気球屋」といわれるほどのメンバーだったそうです。やはり、敵状偵察、弾着観測などにとてつもなく有用だと判断されたからでしょう。
臨時軍用気球研究会
明治42(1909)年6月、研究会条例が出されます。つづいて官制が7月に勅令が発布されます。これは年頭から陸軍大臣が軍務局長長岡外史(ながおか・がいし)少将に航空機の研究を命じ、軍事課長の田中義一歩兵大佐も賛成した結果でした。
長岡少将(8月に中将に昇任)は海外の新知識にも関心が高く、とくに航空について熱心だったのです。1916(大正5)年には予備役になりますが、帝国飛行協会副会長としてわが国の航空界に大きな貢献をしました。自分が死んだら、遺骨を東京湾の上から撒いてくれと遺言されたことでも有名です。1933(昭和8)年没。
会長は長岡少将、この会の委員は陸・海軍と民間研究者も集めたものでした。帝国大学からは田中館愛橘(たなかだて・あいきつ)理学博士、井口、横田の両工学博士が参加します。また、中央気象台長だった中村精男理学博士も選ばれています。
陸軍側のメンバーは井上仁郎工兵大佐(軍務局工兵課長、のち中将)、有川鷹一工兵少佐(のち気球隊長、航空学校長、中将)、徳永熊雄工兵少佐、日野熊蔵歩兵大尉でした。それに御用掛(ごようかかり)として徳川好敏工兵中尉が選ばれました。徳川中尉は翌年、大尉進級と同時に正規の委員になりました。
海軍側からも有能な人々が選ばれています。山屋他人(やまや・たにん)大佐、この人はのちに聯合艦隊司令長官、大将に進みました。現皇后陛下の曽祖父にあたられます。ほかに相原四郎大尉といった兵科将校ばかりではなく、小浜機関大尉、奈良原三次造兵中技士(のちの造兵中尉)などといった多彩な顔ぶれでした。
陸海軍合同組織ですが、顔ぶれをまとめると、陸軍側は砲兵・工兵の将校が多く、海軍は技術や機関関係者もいるというものです。もともと音頭を取ったのが陸軍ということもあり、予算も陸軍側が出しました。これがのちになって、海軍に不満をもたせることになります。
所沢の飛行場
飛行場も探すことになりました。いろいろあった挙句に、当時の埼玉県入間郡所沢町の北にある松井村の茶畑を買い上げることにします。23万8000坪です。約79万平方メートル、東京ドーム何個分という言い方を借りれば、17個分弱。飛行場にはやはり小さいです。予算があまり回してもらえなかったことが分かります。また、こういう軍用地買収には情報が漏れると、「地上げ屋」の暗躍がありました。選定をする軍人たちは目立たぬように服装を変えて下見などに訪れたという話が残っています。
ここは今では陸軍航空発祥の地ということから、航空記念公園や航空発祥記念館などが建っています。
徳川大尉はフランスへ、日野大尉はドイツへ
名称は「軍用気球研究会」でしたが、気球の研究と並行して飛行機の設計・開発もしていました。もともと、奈良原海軍中技士も日野熊蔵歩兵大尉もどちらも飛行機の設計をしていた人ですから研究会の視野には当然、自国製の飛行機の採用があったのです。しかし、2人の設計した飛行機は、両方ともどうしても離陸しない。委員会は海外からの機体の輸入を決めました。
1910(明治43)年4月、徳川大尉はフランスに、日野大尉はドイツに出発します。与えられた訓令は、次のようなものでした。
「アントアネット一層(単葉のこと)型1個、およびファルマン式二層(複葉のこと)型1個を選び、操縦法を習得した後、余裕があって操縦法を習えたらブレリオおよびグラーデ一層型およびライト二層型各1個を購入せよ」
徳川大尉はアントアネット型を買いませんでした。代わりにブレリオ機にしたのです。それはアントアネット社に、同社の水冷50馬力エンジンではなく英国のウーズレー社の発動機を装備して欲しいといったところが、アントアネット社は承知しませんでした。そこで空冷回転式のブレリオにしたそうです。
徳川大尉はアンリー・ファルマン機の操縦訓練を受けました。「同乗飛行は約1時間、単独飛行は3回で合計15分だけでした。機体、発動機の分解、結合や取り扱いなどは何も教えられず、見学もできませんでした。ただ発動機のレバーの操作と各舵の操縦だけができるというのだったから、当時の教育がどんなにお粗末だったか分かるでしょう」と後進にはよく話していたようです。
ブレリオ機にいたっては単座(1人乗り)の地上滑走練習機で地上滑走の操縦法と発動機の取り扱いを覚えただけだったといいます。(この内容は航空情報臨時増刊『回想の日本陸軍機』1962年)
次回はいよいよ初飛行の実際とその後について調べましょう。
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)1月26日配信)