陸軍工兵から施設科へ(55) 昭和30年代の風景

71歳になりました

 鉄道記念日の10月14日、わたしは満71歳になりました。すでに市には敬老優待乗車券という制度があって、市内のバスや地下鉄は年間1万円弱を先払いしていて、カードをちらりと見せるだけで乗ることができます。
たいへんお得な気がしますが、その代わり勤務先からは交通費の支給がありません。全く無料で支給なら仕方がないと思えますが、年間1万円を負担しているのです。微妙に割り切れませんが、まあいいとしております。計算も面倒ですものね。
 興味深いのは、もう2年を越えましたかマスクをするようになってから、一度も席を譲られたことがありません。以前は若い女性や男性、高校生の方などに「どうぞ」と言ってもらうこともありました。それがマスク常時着用になってから、誰からも声をかけてもらえません。おそらく、わたしが歳相応に見えなくなったからではないでしょうか。
 それは私が他の人を見ても同じです。よそ様の年齢が分かりにくくなりました。それに電車内の女性を見ると、みな若く、美しく見えます。どうやら人の歳の取り方の様子は口元にあると言えそうです。また、心理学の方の話を聞くと、マスクで見えないところを美化して想像するとのこと。
 見えないところはよく見えるのです。見るようにすると言ってもいいのかも知れません。今でも外国と比べて、日本のここが遅れているとか、ここがダメだという人が多いのは、
そうした事情もあるかも知れません。
 今日は、映画「張込み」が見せてくれる昭和30年代を見直してみたいと思います。

2人の刑事の泊る肥前屋

 暑いさなかに刑事たちは佐賀警察署に向かいます。署長室のような広い部屋には応接セットがあって、夏の制服姿の署長が迎えました。テーブルの上の扇風機を回します。2人の刑事は上着を着て、大木刑事(大木実さんが演じるので便宜上、大木刑事とします。宮口刑事も同じです)は長袖ワイシャツにネクタイをしています。宮口刑事も半袖開襟シャツですが、上着を着ていました。階級社会のモラルは厳しかったことが分かります。
 2人は警視庁の捜査一課の刑事です。地方警察から見れば、きらびやかな立場でしょうが階級的には宮口巡査部長と大木巡査でしかありません。署長は佐賀県警察とはいえ、国家公務員の警視正ですから、まあ椅子にお座りなさいと宮口に勧めるのは客への厚意でしょう。序列が下の大木は座りません。
 協力の約束をとりつけた2人は容疑者の恋人だった高峰秀子さんの嫁ぎ先に向かいます。拳銃を持って逃亡している田村が連絡を取ってくるだろうと狙いをつけているからです。ちょうど彼女の家が見下ろせる部屋をもつ旅館がありました。屋号は肥前屋、歳とった女将さんが2人の女中(今ならメイドさん?)を使って営業しています。
 宮口刑事は、自分たちは農機具のセールスマンで東京から営業に来たと偽りました。1泊2食付きで700円というのが女将の言葉。宮口刑事が5日から6日はいるんだから勉強してくれと頼みます。結局650円で話がつきました。この頃、「値段の風俗史」を見ると全国の民宿の平均が900円とあります。 
 今でいうといくら?という換算は難しいのですが、当時の小学校教員の初任給は分かっています。1957(昭和32)年で8000円でした。同じ年の国家公務員上級職の人が9200円だったそうです。だいたい今の20分の1か、25分の1かでしょうか。
 
一般の物価が、もり・かけそばが30円から35円、ラーメンが40円、とんかつが洋食屋で170円、蕎麦屋の天丼が150円だったそうです。カレーライスも100円ほど。惣菜ではコロッケが1個7円、鶏卵は高価でしたから1キロあたりで230円になります。2人は夕食のビールも我慢しますが、1本125円ですから贅沢なものでした。

小さい物が多かった時代

 スバルといえば富士重工のスポーツ性の高い乗用車です。でも、この1958(昭和33)年には、軽自動車のスバル360が発売されました。排気量は356CCで、車体の全長は3メートルもなかったのです。4人乗りでした。
 60年には三菱から500、マツダR360クーペが発売されました。もちろん、やや大きな車もあり、高級車といえば55(昭和30)年に発売されたトヨタ・クラウンです。値段はなんと101万円。大卒の初任給がさきほど書いたように約1万円とすれば、100倍、つまり8年分でした。
 スバル360は42万5000円だったので、それでも初任給の40倍。いまでは800万円から900万円にもあたるわけです。クラウンは今でいえば、ベンツやアウディといった超高価格車ですね。
 ルノーのタクシーもあった。たしか初乗りが70円だったような気がします。みんな小さかったのが思い出です。そうしてもっと目立ったのが、オート3輪というトラックでした。オートバイのようなハンドルで前輪が1つしかありません。近所の八百屋さんが使っていました。これの軽自動車版もあってダイハツ・ミゼットです。排気量は249CC、全長はたしか2メートル50センチほど。

活字が力を持った時代

 宮口刑事は急行列車の中で「週刊新潮」を読んでいます。当時の定価は30円。そばのモリカケより少し安いくらい。まあ、今の感覚とあまり変わらないようです。大木刑事は文庫本の詩集を手にしていました。青年らしく外国のものらしい。当時の警察官ですから、おそらく高校卒業でしょう。優秀な向学心があればこそ、その結果の刑事づとめ、勉強熱心だったのです。
当時は、テレビもラジオも未熟だったし、インターネットなんて想像もされていませんでした。情報を集めようとしたら、新聞、雑誌、本を読むしかなかったのです。このあたりは鴨下信一氏の『誰も「戦後」を覚えていない「昭和30年代篇」』(文春新書・2008年)から学びました。
 面白いのは、当時の大人は情報の多くを「小説」から得ていたという指摘があることでしょう。人生をどう生きるか、社会の仕組みはどうなっているか、そんなことがらを小説を読むことで知り、考えていたらしい。
 実際、当時人気があった松本清張の小説は「推理小説」の形を取りながら、官僚機構や大会社の仕組みを教えてくれました。また、「点と線」がこの昭和33年の前年32年に発表され、時刻表を使ったミステリーの走りになりました。
列車の発着がいつもある東京駅の混雑の中で、たった4分間だけ13番線ホームから15番線ホームが見渡せるという発見。鉄道マニアでなくとも興味をひかれます。しかも事件は中央官庁の課長補佐が汚職にからんで女性と心中するといった、権力の腐敗と追いつめられたノン・キャリアの悲哀です。
読者はふだんでは遠いところにある中央官庁の官僚や、贈収賄が日常の支配階級の実態を知った気分になりました。この33年には「ある小官僚の抹殺」が出ます。これまた砂糖汚職に関する下級官僚が周囲から自殺をすすめられる話です。
もちろん、主人公は案外身近なところにいる人も登場します。「坂道の家」は真面目に店を守ってきた駅前商店街の化粧品屋の初老の主が若い女に騙されて、最後は女の情夫に殺されるという話です。
社会のことを小説で知る、その映画化作品で納得する、そんな時代だったような気がします。
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)10月19日配信)