陸軍工兵から施設科へ(26) 東海道線優先へ

はじめに

 KYさま、いつもご愛読ありがとうございます。今回も狭軌か広軌かに関わるご感想、たいへん有り難く拝読しました。仰るとおりで、明治の中ごろに標準軌(広軌)になっていたら、さまざまな想像ができます。陸軍はこの頃、広軌化、複線化、海岸から遠く離すことなどについて要求していました。今回はその前提になったことも含めての内容です。

どんでん返しが起こった

 明治19(1886)年、新しい内閣制度のもと鉄道局長官になった井上勝(いのうえ・まさる、1843~1910年・長州藩出身)は、実際に中仙道ルートの建設に着手してみると予定区間に多くの難工事が予想されることを知りました。
その代表は、群馬と長野県の間の碓氷峠(うすいとうげ)です。群馬県松井田町坂本と長野県軽井沢町の間はなんと標高差で550メートルほどもありました。まともな鉄道で登りきれる勾配ではありません。鉄道は線路と車輪の間の摩擦抵抗で走ります。平地では少しでも走行抵抗を減らす。ピカピカのレール表面と円形の車輪を見れば分かります。それが勾配になると、適切な摩擦が失われ空転してしまうのです。昔の蒸気機関車にはそれを防ごうとしてレールに撒くための砂を入れる箱がわざわざボイラーの上に付いていました。
碓氷峠の後に開通した鉄路は勾配が1000分の66というものでした。水平に1000メートル進むと66メートル登るという傾きです。目の前に1メートル定規を置いて、片方を約7センチ上げてみると、たいへんな勾配だということが分かります。
 神奈川県箱根山は前にも書いた通り、御殿場を通る迂回路は、急勾配もありましたが、機関車を2輌にするなどの工夫で乗り越えることができるめどが立ちました。最大の勾配は1000分の25でした。先に述べた碓氷峠に比べると、およそ3分の1になります。
大きな川を越す鉄道橋も、これまでの技術の進歩のおかげで経費もずいぶん安くすることができます。中仙道コースに比べると、建設路線の長さは大きかったのですが、経費面も建設にかかる時日も小さくなりました。
 1886(明治19)年7月13日に東海道線建設を優先することを閣議決定、翌日には天皇陛下の裁可を受けました。陸軍もまた、内務大臣だった山縣中将がこれに賛成していたために中仙道ルートは、いったん中止となったのです。

メッケルと陸軍

 クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル(1842~1906年)は日本陸軍の父といわれました。プロシャのモルトケ元帥の推薦で、わが国に1885(明治18)年にやってきます。彼の仕事は広範にわたりました。明治16年にドイツ式軍制の採用にあたって陸軍卿大山巌が招いたのです。
なお、この頃、「卿」という役職がありますが、わが国が太政官を廃止して内閣制度を採用したのは1885(明治18)年のことでした。以後、各省の長官を大臣とするようになりました。
 メッケルの提言のうち、よく知られているのが、「日本国内は山が多く、道路の整備が遅れている。砲兵隊がもつ火砲は馬が牽引する野砲より、分解して馬の背で運ぶ山砲が適している」といった装備のことでしょう。また、軍制については、「日本の師団は歩兵、砲兵、騎兵、工兵、輜重兵といった諸兵科連合の、欧州列国軍と比べて大型のものがいい。欧州陸軍の軍団(師団2個で構成する)のようにしたほうがいい」といったことが知られています。
 来日したのは東西両京を結ぶ幹線建設が盛んだったころです。メッケルの意見はどうだったのでしょうか。また、メッケルの忠実な弟子であろうとした陸軍の意見はどのように表明されたのでしょうか。

明治20年頃の国防像

 明治の陸軍は、その建設当初から海岸要塞を重視してきました。これはおそらく陸軍主流だった長州出身軍人たちが、軍艦対陸上砲台の戦いの苦い経験から持ったものではないでしょうか。長州藩は幕末に欧米を敵に回して無謀な攘夷戦を決行しました(四カ国連合艦隊事件)。結果は射程の長い艦砲に時代遅れの長州藩の海岸砲は一方的に撃ち負け、海兵隊の上陸も許すといった経験をします。いまも、下関の海岸砲台が占領されている画像が教科書にも載っているくらいです。
 1887(明治20)年頃から、軍制改革は桂太郎(1848~1913年)によって進められるようになりました。彼はドイツ帰りで当時は陸軍次官兼総務局長(のちの軍務局長)の職にありました。
この頃の、どのように国防の構想を描くかという議論には3つの視点があったようです。元陸将補・黒野耐は『帝国陸軍の〈改革と抵抗〉』(講談社現代新書・2006年)の中で次のように紹介しています。
日本の国防の主体を陸軍にするか海軍にするか。
基本理念として、専守防衛に徹するか、海外に出て脅威の芽を摘み取る外征重視、言葉を変えれば先制攻撃にシフトするか。
専守防衛に徹するとしても、固定的防御(要塞など)を主体とするか、機動的防御を主体にするか。
 なんとなく、近頃の話にも似ていると思えるのはわたしだけでしょうか。いまも陸上防衛力たる陸上自衛隊が主なのか、あるいは海上で敵を迎撃する海自(制空権も重要なので空自も)の強化を優先させるか。国内戦を覚悟した専守防衛か、敵基地攻撃能力を強化するか。そうしたことが当時の議論でもありました。
150年前の状況に今も似ているのは、地政学的な条件が変わっていないことが最も大きい理由なのでしょう。つまり脅威も変わりません。当時は何より清帝国でした。

陸軍内部の対立

 曾我祐準(そが・すけのり、1844~1935)陸軍中将という福岡県柳川藩出身の将軍がいました。ほかに同志として有名なのが、谷干城(たに・たてき、1837~1911年・土佐藩出身)陸軍中将、三浦梧楼(みうら・ごろう、1847~1926年・長州藩出身、奇兵隊士)前同、鳥尾小弥太(とりお・こやた、1848~1905年・長州藩出身)前同という人たちが挙げられます。彼らは1881(明治14)年に憲法制定を急ぐべし、また北海道官有物払下げ事件への弾劾という上奏文を出しました。この行動が軍人の政治関与について大きな騒動を起こします。
 この曾我は陸主海従という専守防衛論を展開しました。その要旨は、
「朝鮮や清は真の脅威にあらず。むしろシベリア鉄道完成後のロシア帝国だ。世論はわが国は英国のような海国だから海軍重視というが、7000余里の海岸線をすべて守るにはどれだけの軍艦が要るか。列強でも東アジアに送れる兵力は1個軍団3万人を超えることはない。だから防衛には常備軍9万、後備軍6万という兵力があればいい。縦長の島国を守るには敵の上陸を予想される港湾に堅固な防御施設を造り、1000門の海岸砲を配備する。電信・道路・鉄道などを整備すれば情報伝達が速くなり、兵力の移動も可能になる」
 
 海軍の役目は「避難碇泊所」(天候等の状況で敵艦隊が避難する)や「各海峡の交通路を閉塞」することだ。これに連携して30余隻の軍艦を各島の間に出没させ、敵艦隊の行動を妨害し、背後に出て兵站を襲わせる。敵が上陸したら要点を防御し、内陸への侵攻を阻止するといったものでした。
 鉄道を重視する。このことはドイツ派の山縣たちも変わりません。加藤陽子氏のベストセラーになった『それでも、日本人は戦争を選んだ』(2009年、朝日出版社)には山縣たちが主張した「主権線」と「利益線」について書かれています。主権線とは国家の主権が及ぶ範囲であり、利益線は国家の存亡に密接に関係する接壌地域の政治的・軍事上の状態をいいます。この時代では朝鮮です。わが国の独立を守るためには主権線を守るだけではなく、利益線を防護して地勢上の有利な地点を押さえることにあると考えたのです。
 対馬が危ないと言うのです。主権線の最前線に立たされる対馬はどうなるのか。朝鮮が中立を守らなくなったら、大変危険なのだということです。

メッケルの指摘

 メッケルは赴任から2年ほど経った明治20年初め頃に「日本国防論」をまとめました。その要旨は次の通りです。まず、敵が上陸したら、部隊をその地点に集中して送り敵上陸軍を撃破する。その上陸地点とは、良港またはその周辺のことです。
侵攻軍は、その港湾をおさえれば運送船でさらに兵力や物資を送り込むことができます。そうして拡張した基地を元にして長期戦にもちこみ、内陸への侵攻を図るだろうとメッケルは言います。
いまは使われなくなった用語ですが、「元寇」を思い出します。13世紀に海の向こうから巨大船団を組んで蒙古・高麗軍はやってきました。博多湾に上陸し橋頭保を建設し、大宰府方面に侵攻しようとしました。
メッケルは敵がその兵力を増加しようという前に、迅速に大兵力を集中させるのが重要だといいます。そのためには、「海軍が出撃するための時間を短くし、混乱をなくす」、「全国の諸部隊の機動を自由にする」、「鉄道と街道網の大いなる供用力の育成を行なう」の3つが課題であると指摘します。
メッケルの具体策は、青森から下関を結ぶ「本州縦断線」の建設です。その路線から東西の太平洋、日本海両方への枝線も大切でした。その際に、この縦貫鉄道は海岸線から離すことが大切だと言い、前年に開始された東海道線建設方針にしっかりと反対をしています。

東海道は危ない

 メッケルは言います。東海道では神奈川県藤沢と同小田原の間が危険である。湘南海岸と西湘南といわれる海岸線です。また愛知県豊橋と静岡県沼津までの海岸も危ない。合わせて200キロメートルにものぼる敵の上陸予定地点に鉄道があるなど許しがたいとも主張しました。警備のために東京の第1師団、名古屋の第3師団の兵力の多くが割かれることを心配していたのです。
 岩手県盛岡と青森県青森の間も危険があるとメッケルは指摘しました。旧奥州街道に沿った岩手県三戸(さんのへ)村と青森県野辺地(のへじ)村を結ぶルートは海岸線に近いということです。盛岡から北上するには青森県弘前(ひろさき)町を目指し、そこから東へ青森に伸びる路線を推奨しています。
 ただし、瀬戸内海の山陽線が海岸付近を通る予定については、まったく反対はしていません。その理由は、由良(ゆら・兵庫県淡路島)、鳴門(なると・徳島県)、芸予(げいよ・広島県)、呉(くれ・広島県)、下関(しものせき・山口県)などの要塞が整備されていて瀬戸内海への敵艦隊の侵攻は難しいからだということでしょう。
 次回は陸軍が広軌を希望していたこと、それがどうして認められなかったかということを調べてみます。
 
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)3月23日配信)