陸軍工兵から施設科へ(27) 日清戦争へ備えて

はじめに

 ウクライナへのロシア軍侵攻から1カ月が過ぎました。戦況は多くの予想をこえてロシア軍の意外な弱体ぶりが明らかになっています。報道される多くの映像を見る限り、ロシア軍車輌が分散せずに集まって先頭車輌が撃破されたり、ヘリコプターが撃墜されたりしています。
 一説によると、ロシア軍は兵士たちに海外に通じる通信器材を持たせていない、それに対してウクライナ市民は手元のスマホなどから海外に自由に発信しているからだそうです。意外なことにロシア軍は実は「張子の虎」だったのではないかとも思われます。ソ連崩壊後の軍縮や、徴兵への忌避などがカウンターブローのように大陸軍を無力化してきたのでしょうか。
 いずれにせよ「専制主義対民主主義」の戦いをいうNATO自由主義陣営とロシア陣営の烈しい情報戦があることは確実です。わたしたちは、それこそ情報リテラシーを鍛えながら正しい判断力を持ちたいものです。

鉄道は東北へも

 東北への道を開いたのは日本鉄道でした。この明治14(1881)年に発足した私有鉄道はもともと、秩禄(ちつろく)処分をされて公債をもつ「華士族」の救済のための組織でした。従来の家禄を奪われ、何とか収入を確保したい華族や士族が金を出し合って将来性がある鉄道に投資する、そういった会社です。
 政府が東西両京を結ぶ路線を建設する間に、日本鉄道は着々と本州の北端、青森に向けて鉄道を伸ばしてゆきました。日本鉄道というその名の通り、この会社は壮大な鉄道路線の建設計画を立てていました。東京から高崎(群馬県)、同じく青森までと、高崎から中山道を通って京都まで、中山道コースから分かれて新潟を抜けて出羽(現在の秋田県)まで、九州でも、いまは門司となった豊前大里(ぶぜんだいり)から長崎まで、その途中で分岐して熊本までというものです。
 上野と高崎の間の約100キロメートルの営業開始は明治17(1884)年5月のことでした。続いて7月には前橋(群馬県庁所在地)までの約8キロを開通させています。そうして翌年3月には、赤羽と品川間(今の山手線と埼京線)の20.8キロを開通させました。品川駅では官設鉄道と線路を結び、新橋と赤羽間には1日3往復の直通列車を走らせます。所要時間は1時間15分だそうです。中山道の各駅から横浜へ向かう人には大変便利になったものでしょう。
 東北方面に向かう栃木県へは大宮(現さいたま市)から宇都宮(うつのみや・栃木県庁所在地)の路線開業は明治18(1885)年7月。翌年6月には利根川を橋を使って渡り、全通します。
 日本鉄道は会社設立の認可にあたって政府と取り決めをしていました。それは、「非常の事変や兵乱があるときには、会社は政府の命令に応じて鉄道を政府が自由に使える義務をもつ」ということです。当時はまだ鎮台が各地にあった時代で、「兵乱」という言葉がまだ重みをもっていたのでしょう。実際、教科書にも書かれる明治17年の「秩父(ちちぶ)事件」では、特別列車が鎮圧用の兵力を乗せて熊谷(埼玉県)まで運転されました。

青森までの延伸

 白河(福島県)から仙台(宮城県)、仙台から盛岡(岩手県)、盛岡から青森(青森県)への各路線が明治19(1886)年から始められます。この中でもっとももめたのが盛岡から青森までのルートです。
陸軍は三戸(さんのへ・青森県南東部岩手県境)から百石(ももいし・青森県東部、太平洋に臨む)、野辺地(のへじ・下北半島の基部、港町)を通って青森へ向かう計画路線の安全を危ぶみました。有事では侵攻軍の軍艦による艦砲射撃を受け、敵軍が上陸することで占拠されれば利用もされてしまうという、当時としてはまったく現実性のある心配です。
陸軍がかわって提案したのは、現在の花輪線や奥羽線コースでした。盛岡から田頭(でんどう・岩手県北西部、現八幡平市)、大館(おおだて・秋田県北東部)、弘前(ひろさき・青森県南西部、弘前平野)を通って青森へ行く内陸路線です。
しかし、この陸軍が提案したルートは山間部が多く、トンネルや鉄橋を多く必要としました。経費の増大がネックとなって、もとの日本鉄道がつくった今の東北本線の路線通りに建設が認可されます。
こうして上野と青森の間が全通するのは、明治24(1891)年9月のことでした。1日1往復の直通列車が運転されました。全長は732キロメートル。下り列車の所要時間は26時間15分、上りが26時間40分だったようです。その30年前の幕末の頃なら3週間近くの日時を要したことでしょう。1日10里(約40キロメートル)を歩いても18日余りがかかりました。

日清戦争に備えて

 明治の鉄道は人を運び、物も運び、それに文明も運びました。学校と軍隊は、新しい文明開化の象徴でした。時計によって管理されて、夏と冬では昼間や夜の長さが違うといった自然と折り合った暮らしは旧いものになりました。人々の生活も近代的なものに変わってきました。
 なかでも軍隊は、服装も、食物も、生活習慣や思考方法まで西欧式近代を取り入れます。兵役を終わった若者は故郷に帰ってからも予備役になり、軍隊と縁は切れませんでした。戦時になると、召集令状が役場からやってきて、若者たちは最寄りの汽車の駅から旅立ちました。
 日清戦争(1894~95年)を陸軍は近衛師団と6個師団で迎えました。主力となる歩兵聯隊は合計で28個、ほかに野砲兵聯隊7個、騎兵、工兵、輜重兵各大隊はそれぞれ7個です。近衛と第1師団の6個歩兵聯隊は東京にあり、ほかは全国各地の衛戍地(えいじゅち)にありました。野砲兵聯隊と騎・工・輜重兵大隊は師団司令部所在地にいます。
 東京以外にある22個歩兵聯隊は動員(戦時編制になること)がかかれば、召集令状によって集まってくる兵員と軍馬を受け入れることになりました。そこから最寄りの鉄道の駅から汽車に乗り、渡海するための集結地に向かいます。たとえば、第1師団第15歩兵聯隊は衛戍地高崎から日本鉄道で品川に向かいました。
第2師団は青森から歩兵第5聯隊が、仙台から第4、第17歩兵聯隊が鉄道を使い、新潟県新発田(しばた)の歩兵第16聯隊だけは直江津まで行軍して鉄道に乗り込みました。名古屋の第3師団は愛知県豊橋の歩兵第18聯隊が東海道線に乗ります。金沢の第7歩兵聯隊は福井県敦賀まで他兵科の部隊と行軍し、敦賀駅から列車に乗り込みました。第6、第19歩兵聯隊は名古屋駅から列車の旅を始めます。
熊本の第6師団も第13、第23歩兵聯隊が他兵科部隊とともに私鉄九州鉄道線で門司に向かいます。小倉の歩兵第14聯隊、福岡の歩兵第24聯隊も鉄道や港に近い位置にありました。

日清戦争と鉄道

 広島の外港だった宇品港、陸軍船舶が集まり大陸へ人員・物資を送りだした有名な港です。ここと山陽鉄道を結んだのが宇品線でした。また、陸軍は東京市内の青山練兵場から新宿への線路の建設を私鉄甲武(こうぶ)鉄道に委嘱します。青山には臨時停車場が置かれ、そこから列車が出ました。この停車場は各地から集まる軍隊をいったん受け入れ、ここから品川へ送りだす役目でした。
 現在も東京都品川区大崎では山手線と湘南新宿線が分かれます。もともと山手線の線路が日本鉄道線だったのですが、これでは品川駅でスイッチバックになってしまいます。これまでは前にあって牽引してきた機関車をターンテーブルで向きを変えて、後尾だった貨車・客車に連結する、そんな手間がかかりました。そこで新しく東海道線の品川―大森の間の大井で東海道線に直結する短絡線を造ります。
 『日清戦役統計』から見ると、興味深い数字が並びました。近衛師団は青山停車場から広島まで569.69マイル(約910キロメートル)を走行時間33時間17分、停車時間10時間54分で合計44時間11分。第2師団は青森から広島まで約1630メートルを78時間56分。第3師団の名古屋-宇品間は約540キロメートル、17時間28分。第4師団の京都-広島間の約380キロメートルを19時間26分。第6師団の熊本-門司の間、約200キロメートルを7時間53分。
 平均速度はいずれも走行時では毎時20キロ以上、30キロ未満という当時としては、なかなかの速度でした。青森から停車時間も入れて3日と3時間余りで広島まで着くことができたのです。
 戦役中で人員14万2900人、馬匹2万5502頭が運ばれました。
 
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)3月30日配信)