陸軍工兵から施設科へ(28) 日露戦争へ

はじめに

 日清戦争の勝利のおかげで、かえって東アジアの情勢は複雑化します。よく知られているのがロシア・フランス・ドイツによる三国干渉です。わが国が条約によって入手した遼東半島を清国に返還せよ、さもなければ3国は実力行使も辞さないという脅迫でした。
 「利益線」である朝鮮をどうするか、せめて朝鮮は中立の姿勢を保って欲しいというのが、わが国の立場です。ところが、三国干渉に悔しい思いで屈したわが国を軽んじ、ロシアに頼ろうとする姿勢を朝鮮王朝はとります。明治28(1895)年には親露勢力によるクーデター、それに反発した日本人による「閔妃暗殺事件」も起きました。
 明治29(1886)年2月にはロシア軍が仁川に上陸し、漢城(現在のソウル)に進駐します。このとき、国王はロシア公使館に保護を求めました。そうして国王が宮殿に戻る1年間で、欧米列国は鉄道、電信の敷設権、租界の設置などのさまざまな利権を得てしまいます。
 明治政府も東京―横浜間の鉄道敷設権を、うかつにもアメリカの領事館員に渡してしまうという事件もありました。このときは交渉の結果、多額の違約金を渡すことで国内最初の鉄道がアメリカ人の手に渡ることを防ぎました。建設はしなくてよいけれど、協力金は払わせられるは、開通後には運営権も取られてしまう。大変なことなのですが、事情が分からない後進国の悲しさです。

歴戦の宮様・伏見宮貞愛親王

 この明治29年はロシアで新しい皇帝が即位した年です。新しいロシア皇帝は日本訪問中に滋賀県大津で警戒中の警察官に斬りつけられて負傷したニコライ2世でした。伏見宮貞愛(ふしみのみや・さだなる)親王殿下(陸軍大将・元帥、1858~1923年)が天皇陛下の名代でモスクワの戴冠式に列席され、随行の全権大使は山県有朋陸軍大将です。貞愛親王は幕末の邦家親王の第14王子でした。
 最近話題の皇族の復帰などで話題になっているので、ちょっと寄り道しましょう。伏見宮は世襲親王家といわれた皇族です。親王というのは本来天皇の直系の血筋になりますが、この世襲親王家は特別な存在でした。幕末には4家あったので「四親王家」と言われました。いまは評論家ですが、元竹田宮家の方が、「天皇家の血の伴走者」という的確な表現をされています。
 伏見宮(ふしみのみや)、桂宮(かつらのみや)、有栖川宮(ありすがわのみや)、閑院宮(かんいんのみや)の4つの家を世襲親王家といいました。この宮家の方々は古い昔に天皇家から分かれた方々ですが、男系で継承され、親王号ももっています。そして、天皇家の血筋が絶えようとするとき、この親王家から新しい天皇が即位されました。
 幕末の伏見宮邦家(くにいえ)親王は子沢山な方で、第8王子は小松宮彰仁親王(陸軍大将・元帥)、第9王子は北白川宮能久親王(陸軍大将・台湾で戦病死、幕末には上野寛永寺の輪王寺宮)、この他に第16王子が閑院宮載仁親王(陸軍大将・元帥)、第17王子が東伏見宮依仁親王(海軍大将・元帥)というきらびやかさです。
 ただ、貞愛親王はお飾りの高級軍人ではなく歴戦の方でした。明治5(1872)年にのちの東京大学になる大学南校(なんこう)に学び、翌年陸軍幼年学校へ、8年1月に陸軍歩兵中尉になり、そのあと士官学校に第1期生として入校します。建軍当初の混乱期で、いきなり中尉に任官し、その後に正規の士官教育を受けるという形です。西南戦争には征討総督本営付で従軍します。
 明治14(1881)年少佐に、同17年に中佐に進み、欧州へ派遣、帰国して近衛歩兵第4聯隊長(大佐進級)、同25年少将に進み歩兵第4旅団長です。日清戦争では威海衛攻撃の前衛司令官を務めます。同31年には中将、第10師団長です。だから、このロシア皇帝の戴冠式の時点では陸軍少将でした。日露戦争では第1師団長であり、南山の攻撃で勇戦します。同37年6月、大将に進み帰国して大本営付。
 明治40(1907)年には英国に答礼大使として差遣、3年後には英国王エドワード7世の大葬へ参列。大日本武徳会、帝国在郷軍人会、済生会総裁などを歴任します。

ロシア、遼東半島を租借する

 山縣有朋はロシア外相と「日露議定書」を結びます。その中身は朝鮮独立の保証です。しかし、ロシア外相は同時に清国欽差大臣李鴻章と露清密約を結んでいます。なんとその内容は、ロシア・清・朝鮮は協力して日本が攻撃してきたら連携して戦うという攻守同盟でした。このときに、李鴻章は満洲を横断するシベリア鉄道の敷設権をロシアに与えていました。
 シベリア鉄道は、ヨーロッパ・ロシアと極東のウラジオストクを結ぶ長い鉄道です。ウラジオストクは「東方を支配せよ」という意味をもつ軍港の町でした。わが国にとっては、北方の安全にたいへん関わるところです。
 さらに2年後、1900(明治33)年のことです。ロシアは北清事変(義和団の乱)をきっかけに東清鉄道を保護するという名目で満洲を占領します。そのうえ、遼東半島の南端の金州半島の租借を得ました。旅順や大連がロシアの土地になってしまいました。ここにわが国の利益線はあやういものになってきます。

広島から西へ

 当時の山陽鉄道は私有鉄道でした。路線が認可された時には、明治21(1887)年から13年6カ月以内に広島-赤間関(下関)を完成させるというものでした。期限は明治34年7月3日です。しかも具体的な路線計画には「軍事上変更ヲ要スル儀」もあるかもしれないから政府の指示を受けろという条件が付いていました。
 陸海軍が苦慮していたのは瀬戸内海の安全でした。東側の紀淡海峡(紀州と淡路)は由良要塞、鳴門海峡は鳴門要塞で守れます。西側は呉要塞と芸予要塞で封鎖できますが、広島から下関までの海に入れる安芸灘(あきのなだ)、周防灘(すおうなだ)の封鎖は難しいものでした。当時は九州と四国の間にある大分県の前面の豊後水道の防備は不可能だったのです。
 山陽鉄道は岩国と櫛ヶ浜(現在山口県徳山市)の間は山間を通す。現在の岩徳線(がんとくせん)のコースです。あとは海岸線に沿って路線を敷きたい。工事費も安いし、沿線に都市が多く、旅客・貨物ともに収益を上げやすいのです。
 しかし、陸軍案は山間を通るものでした。廿日市(はつかいち)から西に進み、友田、津田といった山中横断コースで宇佐郷(岩国市)を通り、六日市(島根県鹿足郡)、七日市(昭和31年六日市町に編入)、大野原、柿木、下須といった当時の島根県吉賀町を通り、左鐙(さぶみ)、瀧本、直地、津和野(山陰の小京都といわれます、森鴎外や西周の出身地)から山口を結ぶものです。地図で確かめても深い山中を曲がりくねって、いくつもの峠を越すといった厄介な路線でした。
 鉄道の監督をする鉄道庁も案をもっていました。岩国から須々万(すすま・現周南市)を通って山口に抜けるものです。いずれも長いトンネル、橋梁、急勾配区間などの難工事が予想される長大なルートです。私有鉄道が気安く請け負えるものではありませんでした。
 次回は山陽鉄道の延伸を見てみましょう。この稿については『鉄道と日本軍』(竹内正浩・2010年、ちくま新書)に依るところが多く、助かりました。
 
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)4月6日配信)