陸軍工兵から施設科へ(29) 山陽鉄道の全通

はじめに

 不思議な意見が出るものですね。若い人に人気があるのかどうか、芸人が真面目な顔で語っていました。「防衛費を増額するのかどうかの議論をすべきだ」。何を寝ぼけたことを言っているのかと驚いたのと同時に、ニュースを分かりやすく一般の人に解説しているのだそうだから、こりゃ大変なことだと思ったのです。
 どこがおかしいかというと、防衛費というのはどういう敵と、どのように戦うのかという観点から議論されるものだからです。兵器や装備、つまり防衛費の大元はそこから話し合われなくてはならず、議論すべきはいくらの金を投じるかではなく、次の戦争のイメージを話し合うべきなのです。国内総生産の1%だとか2%だとかを語り合う前に、みな、どんな戦争に備えるのかが大切でしょう。それが決まれば必要な金額はそこで決まってきます。
 かの大東亜戦争でも陸軍の装備品は対ソビエト連邦のためのものでした。海軍の艦艇も太平洋を越えて攻め寄せてくるアメリカ艦隊に対抗しようとするものだったのです。陸軍の主力歩兵銃が明治38(1905)年制式だったことを陸軍の技術軽視、後進性のように言いますが、欧米列国はどこでも明治時代の小銃を使っていました。
 それは中国大陸の満洲北部での対ソ連戦を想定していたからです。同じようにソ連軍も19世紀に開発された槓桿式(ボルト・アクション)のモシン・ナガン小銃を主力とし、アメリカ軍も同じころに制式化されたスプリング・フィールド小銃を使っていました。フランス軍もイギリス軍もみな同じ。明治時代の小銃で戦っていたのでした。
 そこへアメリカ軍だけが1942(昭和17)年から自動装てん式のM1ガーランドを投入しました。裏付けは工業生産力と小銃弾の前線への追送能力でしょう。どこの国でも馬やラバを使って小銃弾を運んだのに、米国はジープに切り替えました。
 海軍が大和型戦艦を計画したのも、米海軍の戦艦がパナマ運河通過の制約があることを考えたこともあるようです。艦体の幅が狭くては、長射程の大型砲は搭載できません。また航空魚雷による米艦隊攻撃を考えたからこそ、双発の陸上攻撃機を多数そろえたのでしょう。
ロシア軍のウクライナ侵攻で分かったことは、依然として北海道や北方領土が脅かされていることです。ロシアの国会議員が「北海道の先住民族はロシア人だ」と言いだし、「関東軍のことを思い出せ」などと発言するのも明らかに恫喝でしょう。そういう現在、防衛費を増やすか増やさないかを議論せよとは・・・。何かのためにする意見だとしか思えません。

山陽鉄道の下関延伸

 明治29(1896)年には三田尻(みたじり・防府市の中心)と有帆(ありほ・現在の小野田)は海岸沿いをとるコースが認可されます。三田尻は江戸時代にも長州海軍の根拠地であり、防長米や三田尻塩の積み出し港として栄えました。防府という地名は、古代律令制度の周防国(すおうのくに)の国府が置かれた場所でした。
有帆はその名の川で知られ、現在は山陽小野田市に入っています。広島と防府(ほうふ)の間はいまも残るように、ほぼ海岸線近くをたどっています。ところが、防府から下関間の線路は海岸から離れた山地に入ります。
 有帆と赤間関(あかまがせき・下関)は1899(明治32)年に着工されて翌年12月には三田尻と厚狭(あさ・旧厚狭町、現在は山陽町)間の約53キロメートルが開業します。翌、20世紀になった明治34年5月、終点の赤間関停車場が開かれ、当日に「馬関(ばかん)」と改称されます。
 3日後には厚狭と馬関の間35キロメートルが開通しました。当時の最速列車である「最急行」を使えば、神戸と馬関の間は12時間35分で結ばれます。この開業と同時に、馬関と門司港(当時は門司駅)の間は連絡船が走り、門司からは私鉄九州鉄道が伸びていました。長崎や八代(やつしろ・熊本県南西部)まで行けました。こうして、北は青森から南は八代まで幹線は通ることになりました。

山陽鉄道の「最急行」

 山陽鉄道には結城弘毅(ゆうき・こうき)という鉄道技師がいました。1878(明治11)年、札幌市の生まれで東京帝国大学工学部機械工学科の卒業です。明治38年に、なぜか官鉄には入らずに私鉄・山陽鉄道に就職します。酒好きで大変な呑んべいだったそうですが、仕事はとてもよくできました。のちに主要私鉄の国有化で彼も官に務めますが、ある種の反骨精神が旺盛だったのでしょう。
 当時は山陽鉄道の営業キロ数は653.5キロ、日本鉄道の1384.7キロに継ぐ大手でした。急行列車や、食堂車、寝台車なども官鉄に先駆けていました。急行列車は1895(明治28)年には神戸-広島間を8時間56分という快速でした。官鉄は新橋-神戸間を20時間5分だったので、これをそれぞれ表定速度でみてみましょう。
 表定速度というのは、途中駅の停車時間も含めて走行距離を割ったものです。山陽鉄道の急行は33.7キロメートル、官鉄は30キロメートルでした。また、山陽鉄道に遅れること2年後に生まれた官鉄の新橋-神戸間は急行で34.8キロメートルです。
 ところが、1903(明治36)年に走り出した山陽鉄道の急行列車は「最急行」といったらしいのですが、神戸-馬関の間を11時間20分、表定速度46.4キロという高速力のものでした。停車時間や機関車への給水・給炭時間も入れての数字ですから、実際には60キロや70キロも出したに違いありません。
 その乗り心地は大変な揺れだったそうです。レールは細いし、連結器もチェインとフック、ブレーキも効きが悪い、そういった悪条件でも山陽線の最急行は走りました。のちに鉄道大臣になった仙石貢(1857~1931年)も豪胆な人だったといいますが、当時は私鉄九州鉄道社長、決してこの最急行には乗らなかったといいます。無茶苦茶な鉄道で育ったのが結城弘毅でした。

現場に生きたエリート

 当時の帝国大学出身の工学士の技師といえばスーパー・エリートです。結城は札幌生まれ、雪かきでシャベルの扱いには自信がありました。現場に出て機関車に乗り、石炭をくべる助手から鉄道修業を始めます。ところが、これが上手くいきません。機関車の缶には火床(かしょう)があって、そこに平均に効率よく石炭をくべなくてならないのです。わたしが子どもの頃には機関区には投炭訓練場があって、機関助士はその技を磨いていたものでした。
 結城はその下働きを小学校卒の若者たちに混じって続けます。1906(明治39)年には鉄道国有法が出されて山陽鉄道は官鉄になりました。結城は役人になりましたが、1907(明治40)年に長野機関区に異動します。この機関区の担当地域は長野県軽井沢から新潟県直江津まででした。
 この頃の鉄道は定時運転を守りません。時刻表通りに運転されることはほとんどなく、1時間遅れが当たり前という様子だったようです。それを結城は改善します。時間よりは安全第一だと主張する機関手に時間厳守を説き続けました。当時の機関車には速度計などついていません。時刻表とにらめっこをしながら時計を片手に、これと決めた目標である沿線の樹木や建物を見ながら速度調整をしてゆきました。こうして長野機関区での実績をもとに、名古屋、大阪と転勤しながら定時運転を突き進めていったのです。

超特急「つばめ」

 大正から昭和の戦前期、鉄道記者は花形の仕事でした。そんな1人があるとき、鉄道省の運輸課長を訪れました。課長は大阪から異動してきたばかりでした。省の課長は高等官2等の勅任官、軍隊でいえば少将にあたるような地位です。この新任課長といろいろと質問をしている中で、記者は外国と比べてのわが国の列車の速度の低さを話題にしました。
 すると東京-大阪間、いまの12時間余りを3時間は縮めてみせようと課長は言うのです。記者は驚きました。課長はすぐに隣の部屋の技師を呼ぶとすぐに指示を出します。「東京-大阪をノン・ストップでゆく。機関車は新造しないでC51を使い、編成は8輌。給水は止まらないで走りながらする。箱根山の勾配(いまの御殿場線)は列車の走行中に補機をつけて押す。外す時も走りながらだ」
 すると技師は計算した結果、9時間あまりになるといいます。課長は、いや9時間なら神戸まで行ける、大阪へは8時間だと再計算を求めます。計算をやり直すと、ぴったり8時間で行けるとの返事になりました。驚く記者に結城課長は言います。2、3日うちに試運転だ、こうして超特急つばめは誕生の挑戦は始まりました。
 次回はこの「つばめ」について詳しくお話します。今回のお話は、「国鉄」(青木槐三・1964年・新潮社)と「機関車一〇〇年」(毎日新聞社・1968年)を参考にしました。
 
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)4月13日配信)