陸軍工兵から施設科へ(30) 超特急「つばめ」

はじめに

 気温の乱高下がひどいです。皆さま、いかがでしょうか。体調を崩している方も多いようですが、お大事になさってください。
 KSさま、わたしの意見にご賛同くださり、まことにありがとうございます。おっしゃっていただいたように戦力の基礎にあたることを議論すべし、というご認識に心から賛同し、感謝申し上げます。弾薬の備蓄、効率的な装備研究などが重要です。また、今回のウクライナの戦況を見ると、砲兵火力や戦車、さらには対戦車火器の重要性が示されていると思います。
 ひるがえって、わが陸上自衛隊の現況はどうか。戦車は300輌(なんと冷戦時の4分の1)、火砲も300門(前に同じ)とずっと減らしてきました。予算がない、金がかかる戦車なんか要らない、長大な装備は要らないといった財務省の、ひいては政権の考えでした。なかには、もう戦争は起きない、憲法9条を守れば戦争も仕掛けられることはないといった主張もありました。
 なお、女性が自衛官に増えてゆく、こういった流れの中で主力小銃が新しくなっています。軽量で、隊員の体位に合わせて変えることができる装備です。地道に研究をし、きちんと成果を出している方々がいます。
 さて、今日は戦前の蒸気機関車による東京-大阪間の超特急の話です。わたしの世代では、子供の頃から蒸気機関車に馴染んできました。小学生の頃は中央本線も甲府までしか電化されていませんでした。もちろん、元東海道本線だった御殿場線にもSL(スティーム・ロコモーティブ)の貨物用機関車の王者であるD52が走っていました。
 中学生の頃には、東京の両国駅からC58という軽快なSLにひかれた列車で館山まで出かけた記憶があります。また、冬には寒稽古に登校する夜明けの頃、丘の上からD51が貨車の長い列の先頭に立って常磐線を走ってゆくのを見ていました。
 SLが国鉄(今のJR)の営業線路上から姿を消したのは1976(昭和51)年のことでした。今では保存された機関車などが各地にありますが、ふだんから動いているSLに接していた世代はもう少なくなりました。

昭和の初めの世の中

 計画が始まったのは1929(昭和4)年のことでした。関東大震災(1923年)からまだ6年しか経っていません。昭和2年には金融恐慌があり、金銭の支払いを猶予するモラトリアムも実施され、翌年には満洲軍閥の張作霖(ちょう・さくりん)が関東軍の暴走で殺されました。そうして昭和4年の10月、ニューヨーク株式の大暴落という世界中を巻き込む大恐慌が起きてしまいます。
 でも、こうした歴史教科書にあるような暗い話ばかりではありません。人の世とはそういうものです。どうにも辛いこと、苦しいこともありましょう。どんな時代状況でも人は明るく気分を高めて生きていきたいのです。
軽快な「昔恋しい銀座の柳」で始まる東京行進曲、「赤い灯青い灯」で歌い出す道頓堀行進曲などが流行しました。また、昭和4年末の統計ですが、大阪市の人口が233万4000人となり、東京市の221万8000人を抜いています。

昭和ヒトケタの時代

 いまのおカネでいくら?というのが非常に難しい質問です。米価の比較や、大卒初任給で比べたり、地価で比べたりするやり方などもありますが、なんといっても大きく変わったのが人々の意識です。明治・大正は文明の利器を使うと高価です。
たとえば、20世紀の初め、日露戦争の頃には鉄道の乗車券などは東京から神戸に行けば7円23銭ほどかかりました。もっともこれは2等運賃、3等の2倍です。急行料金が1円、通行税が23銭ですから合計で8円46銭かかります。だいたい1円が1万2000円くらいと考えるとざっと10万円あまり。
 
その代わり、人件費がやたら安い時代ですから、家で雇うお手伝いさんの女性などは月給2円ほど。三食付いて小さな部屋が与えられるから、当時の人にとってはけっこうよかった水準だったのです。「一握の砂」などで有名な石川啄木は朝日新聞の社員で残業代も含めて月収30円でした。今なら36万円ですね。ただ、病気の両親と奥さん、子供たちを抱えていては生活が苦しかったのが分かります。
ところが一時的に好景気になった大正時代の半ば(第1次世界大戦景気)から、国民生活全般がずいぶん豊かになりました。インフレも始まります。総理府統計局が1953(昭和28)年にまとめた物価指数表をみると、昭和9年の物価指数を1とすると、1922(大正11)年は1.5と5割も高くなっています。
この超特急が企画された昭和ヒトケタの頃はデフレのおかげで1.01ほどということから昭和9年とあまり変わりません。この後、1937(昭和12)年から支那事変が起こり、景気は浮揚し、インフレも始まってゆきました。
わたしはおおよそ、昭和4年、5年頃の1円は現在の3000円くらいと考えています。当時の鰻重は60銭、だいたい1800円、天丼が30銭から40銭くらいだから900円から1200円。酒ではビールが高くて1本35銭、1000円ほど。汽車の駅弁も35銭。清酒は特級で1升(1.8リットル)が2円ほどで6000円、普通酒が1円だから3000円。市電(路面電車)の料金が7銭で210円。タクシーは「円タク」といって山手線内は均一で1円。

賛否両論!

 鉄道記者が、結城運転課長のもらした「超特急計画」を特ダネにしました。とたんに、賛成、反対の声が沸き起こります。まず、安全管理からの不安でした。「レールを強化し、カーブをゆるくし、駅構内にあるポイントを強化し、それには800万円の費用がかかる」というものです。
 レールには規格があります。大きな負担がかかるから、重量のあるものにしなければならない、強度が落ちるのは分岐点(ポイント)だから強化せよというのは当然です。800万円をいまの金額に直すと3000円×800万ですから、240億円となります。
 1928(昭和3)年の一般会計歳出が1、814、855、000円です。約18億1500万円ですから、800万円はその0.4%にもあたりました。国民総生産だって1650、5000、000円でした。165億円です。なお軍事費は51、723、7000円ですから5億2000万円になっています(『近代日本経済史要覧』東京大学出版会・1975年)。
 身近な米価でいえば、1斗(15キログラム)が2円50銭あまりの時代です。いまのお金では7500円になります。キロ当たり500円ですから、今、スーパー・マーケットで2キロ800円くらいでしょうか。同じようなものですね。ただし、当時の人は1日に3合(450グラム)は食べましたから、1カ月で10升つまり1斗を食べます。家族6人なら米代だけで15円、ざっと4万5000円です。こういったことからも当時のふつうの暮らしが見えてきます。ちょっと寄り道でした。
 しかし、当局は実行します。運輸局長も、次官も、鉄道大臣もゴー・サインを出しました。ひどい経営難の中でも(鉄道従事者の給料も下げた)、難事に挑戦し、みなの士気を高め、国民にも意気を示そうとした高度な政治判断だったのではないでしょうか。

難問だらけ

 3時間のスピードアップをすると、一口に言っても難しいことばかりでした。まず、箱根山を迂回するための山北(神奈川県山北町)-御殿場(静岡県御殿場町)の間の急勾配があります。また、機関車の給水や給炭をどこで、どれくらいの時間で行なうか、そうした技術的な問題もありました。
 当時の最高の旅客用機関車は18900型、のちのC51です。もちろん国産でした。わが国の鉄道技術は大正時代には強力な機関車を輸入しなくてよいようになっていました。1919(大正8)年に完成したのが、この名機でした。動輪は3つ、つまりCです。先輪(せんりん)といわれ、カーブを通過しやすくする小さな車輪が2軸、運転台の下に見える火室の下にも1軸の小車輪がついています。だから形式は2C1といわれました。特徴がありました。動輪の直径は1750ミリ、当時の世界の狭軌の機関車では世界最大のものでした。
 車輌の編成も工夫しました。これまでの特急よりも軽くします。これまでの特急「富士」は11輌編成でしたが、技術陣は7輌にします。手荷物車(3等車と混合)1輌、3等車2輌、食堂車1輌、2等車2輌、1等寝台車1輌の合計7輌です。乗車定員は1等20人、2等128人、3等226人の合計374人とします。
 とにかく走行速度を速くしなければなりません。国府津(神奈川県国府津町)と山北の間は最高時速80キロ、さらに山北から御殿場の25パーミル、40分の1勾配ともいいますが、水平に1000メートル進む間に25メートル登るという難所も時速50から60キロメートルで駆け抜けようというのです。
 さて、来週は実際の場面を検討してみましょう。
 
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)4月20日配信)