陸軍工兵から施設科へ(31) 蒸気機関車で全行程を

はじめに

 いよいよ大型連休です。わたしも26日から学校の仕事のお休みをいただき、5月2日も休暇を取りました。10連休です。わたしのような非常勤職員ならではの我儘ですが、ゆったり過ごそうと思っています。
 それにしてもコロナ禍で3度目のGW、政府はふつうに過ごして欲しいとのことですが、国内旅行も人気を取り戻しつつあります。どうか、少しでも経済的な状況が好転しますよう願ってやみません。
 今日は蒸気機関車が鉄路上からなくなっておよそ半世紀近くなりました。おかげで一部の好事家の方々以外は、案外、その仕組みをご存じないかと考えます。そこで、鷹司平通(たかつかさ・としみち、五摂家近衛家の流れ、1923~66年)氏のご解説を紹介しようと思います。
 氏は日本交通公社に入り、交通博物館にも関わられた鉄道マニアの方で、昭和天皇陛下の皇女、和宮内親王殿下の配偶者でもあられました。
 事故死を遂げられましたが、「朝日新聞社のりものシリーズ・世界の鉄道62年」の「基礎の知識」で書かれたものです。

機関車のしくみ

 まずボイラです。その中には5.8立方メートルもの水が入ります。ボイラが長くて、太いほど強力な機関車です。ここで水から蒸気を作ります。その蒸気を蒸気機関に導いて蒸気の膨脹を利用してピストンを前後に往復運動させます。それをクランクで回転運動にして動輪を回して走りました。
 運転室の前には長いボイラがあり、その後部、下には石炭が燃える火室(かしつ)といわれる空間があります。その下部は火格子(ひごうし)といわれる部分で、その下には燃えカスが落ちる灰箱が付いています。火格子の面積は2.53平方メートルもありました。
 火室にはアーチ管といわれる水管が通っていて、これは火室の中の伝熱をよくする工夫です。このアーチ管には、燃焼したガスの通路を長くして、より燃焼効率を上げるためアーチ煉瓦が積んであります。火格子の上に機関助士は絶え間なく石炭をくべ続けます。しかも、火格子のすべてに万遍なく平均に投炭しなくてはなりません。たいへんな重労働であり、熟練を必要とする技術でもありました。
 火室の先は燃焼室といわれるスペースです。ここで燃えた石炭は700℃から1000℃のガスになっています。このガスが煙管(えんかん)の中を前方に向けて流れてゆきます。昔、子供の頃には万世橋(まんせいばし)の交通博物館の大きなフロアに実物のC57型蒸気機関車のカットモデルがあって、大小の煙管を見ることができました。
 大煙管は直径140ミリ、長さ5500ミリで18本、小煙管は直径57ミリで長さは同じで、本数も同じく18本がありました。機関区に帰った機関車はこの中にたまった煤(すす)をきれいに取らねばなりません。これも当時、「庫内手」といわれた乗務員予備軍の若者たちを苦しめた仕事でした。
 C51型機関車は運転重量が約68トン、炭水車の重量は約44トンもありました(石炭は8トン、水17トン積載)。テンダー(炭水車)も含めた全長は約20メートル、動輪の直径は当時の狭軌の機関車では最大の1750ミリです。この大きさは、以後も旅客用蒸気機関車の標準になります。東京駅大手町の地下にある動輪の広場には、いまもC62の動輪が保存されています。
 静態保存されたC515号機は1962(昭和37)年から東京都青梅市の鉄道公園にありましたが、2007(平成19)年に埼玉県さいたま市大宮区の鉄道博物館に展示してあります。
 外観を見ると、ボイラの上には2つの丸いこぶが付いています。前が蒸気溜で後ろの方にあるのが砂箱です。そこには動輪が空転するのを防ぐために、レールの上に撒く砂が入っています。3つに分かれた砂を流すためのホースを見ることができます。
 水で囲まれた燃焼室、火室、煙管のおかげで水は蒸気になり、前のこぶに溜められます。この中には加減弁がつき、機関士が加減弁ハンドルを運転室内で引くと蒸気は乾燥管の中に送られます。この乾燥管は前へのびてゆき、温熱管寄せで過熱管に分かれました。温熱管は大煙管の中を往復し、また過熱管よせで集まり、給気管につらなってゆきます。
 なんでこんな面倒なことと思いますが、ボイラで生まれた蒸気はいわゆる飽和蒸気です。やかんの口から吹き出す蒸気(透明)がすぐに湯気になってしまう(目に見える)のは、飽和蒸気はちょっと冷えるとすぐに水滴にもどってしまうからです。そこでさらに圧力と熱を加えて過熱蒸気に変えてしまいます。この蒸気圧は13キログラム/平方センチで、過熱蒸気の温度は400℃くらいでしょうか。
 給気管からシリンダーに入る蒸気は、ピストン弁でピストンの前後に交互に送りこまれ、シリンダーの中で膨脹し、ピストンを押します。押し切った蒸気は排気管へ出て、吐出管から勢いよく噴出して、ボイラの前後から煙室にたまった燃焼ガスといっしょに煙突から吹き出します。ガスは完全燃焼していれば色はありません。だから煙突から出る煙は実は蒸気なのです。これが白い煙に見えるのです。

給水時間を短縮せよ

 だいたい蒸気機関車の航続距離というか、安全、安心な走行距離は50キロメートルくらいと言われます。だから給水塔があり、給炭台が用意され、灰も捨てられるようなピットがある機関区はだいたいそんな距離にあったようです。
 東海道線は当時、国府津までは電化されていましたが、難題なのが箱根越えでした。線路はいまも御殿場線となっていますが、箱根の山を左手に見ながら酒匂(さかわ)平野を北上します。兄弟の仇打ちで有名な曾我の梅林、松田町を越えると今度は上り坂です。神奈川県の外れになる山北駅には大きな機関庫がありました。
 超特急の担当機関区は沼津に白羽の矢が立ちました。機関車は沼津機関区が受け持ち、乗務員は沼津より東京の間は沼津機関区、沼津から西は名古屋機関区の乗務員が担当します。沼津機関庫では9名の機関手と7名の機関助手が選ばれました。この機関手の先任は当時28歳で、連続7時間の投炭記録をもつ人でした。18トンもの石炭をシャベルで火室にくべ続けたのです。
 結城運転課長の構想では、東京と大阪間は無停車・ノンストップでした。途中の給水はなんと走りながら給水管ですくうというのです。平坦で直線が続く、静岡と草薙(くさなぎ)の間に2000メートルの水槽を造って、給水管を垂れ下ろして水をすくおうという計画でした。
 後押しの補助機関車の連結も解放も走りながら行ないます。側線で待機していた機関車は超特急列車が本線を走り抜けると同時にスタートする。追いかけていってただちに連結するといった離れ業を行なうことになっていました。この訓練はいまも広大なスペースがうかがわれる横浜市の新鶴見駅の構内で行なわれたようです。
 ところが下り国府津駅、上り列車は沼津駅で、それぞれ30秒停車の間に連結と解放は行なわれるように決定します。また、走行中の水をすくう方法も取りやめとなり、専用の水槽車を新たに造って機関車の次に連結するようになりました。こうして水槽容量が20立方メートル(C52型と同型)の大型テンダーに改良し、30トンの水を積む水槽車を連結します。この水槽車はのちに、「ミキ20」と言われました。「水のミ、積載量が最大なのでキ」のミキです。次回はいよいよ超特急の誕生です。
 
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)4月27日配信)