陸軍工兵から施設科へ(68) 赤軍事件とわたしたち

 大寒波がやってきました。予報が出た頃、わたしは北海道の陸上自衛隊の皆さんにお話を聞いていただく機会を与えていただけました。幸い、北海道では零下10度ほどの冷え込みはありましたものの、およそ3日間、穏やかな天候でした。
 黙々と隊員の皆さんは任務に就いています。正門の警衛には若い女性自衛官も武装して立っていました。きびきびした態度で寒さの中を服務中でした。お疲れ様!風邪ひかないでと心の中でつぶやいて応援しました。
 KS様、お便りありがとうございます。おっしゃる通り朝日新聞をはじめ多くのマスコミは、意図的に多くのウソを垂れ流してきました。それが記者彼ら、彼女らのおごり高ぶった勝手な使命感からなのか、意図的な敵方の工作の結果なのでしょうか。あるいはその両方なのでしょうか、少なくとも謙虚な気持ちで正しい報道を行なうということからは遠い行動の結果と思います。
 KY様、まったくお書きいただいた通りです。歴史はさまざまな角度から事実を検討し、その上で報道される中味の真実を追究することが大切ではありませんか。自分の思いと異なる事実があっても、それを受け入れ、その背景の事情にも思いをはせることが大切です。より正しい時代相の追究に努めていかねばなりません。

赤軍派の兵士たち

 1972(昭和47)年2月2日、グアム島の密林から横井庄一伍長が生還しました。銃床もぼろぼろになった歩兵銃を「天皇陛下にお返しするために」持ち帰ったと言われます。長い逃亡生活で56歳と報道されながら、ずいぶん老けて見えました。「恥ずかしながら生きて帰ってまいりました」という言葉が流行し、しばらく「恥ずかしながら」が人々の口の端にのぼります。
 伍長の帰国の翌日、札幌で冬季オリンピックの開会式がありました。日の丸飛行隊とかマスコミが名付けたスキージャンプ・チームの日の丸がまぶしかったです。それが閉会式からすぐの19日、わたしたちはテレビにくぎ付けになりました。
 連合赤軍の「兵士」たち5人が軽井沢の企業の保養所浅間山荘を占拠し、管理人の奥さんを人質に立てこもりました。彼らは猟銃などで武装し、包囲した警察官に発砲します。
 赤軍派という過激集団は1969年に結成されました。70年3月には、その一部が日航機「よど」号をハイジャックし北朝鮮に「亡命」します。「革命は銃口から生まれる」をスローガンに、彼らは銃砲店を襲った京浜安保共闘といっしょになって「連合赤軍」を名乗りました。
 「兵士」たちは軍事訓練に励みましたが、アジトを警察に見つかり森や永田というリーダーは逮捕されます。残りは軽井沢付近の山中に逃げ込みました。手加減した警察隊は多くの死傷者を出してしまいます。人質の安全が最優先だったからでしょう。それに犯罪者は生きたまま逮捕する、そういった方針が貫かれます。
 2月28日、ついにガス弾だけを使った警官隊は2人の死者を出しました。人質を救出し、5人を逮捕することができました。それにしても手ぬるい、とわたしは思っていました。「兵士」たちは自分が撃たれることなど考えてもいないからでしょうか。窓から身を乗り出し、銃を外につき出して警察官に発砲を続けていました。
 その手ぬるさの1つの理由は、まだまだ世の中の気分に「学生運動」への同調者が多かったからではないでしょうか。卑怯な極悪人、とわたしは思っていましたが、周囲は必ずしもそうではなかったようです。

3発で終わる

 帝国陸軍の砲兵少尉だった山本七平は『私の中の日本軍』の中で次のように書いています。だからインテリや反体制を気取る人たちから、山本氏は蛇蝎のように嫌われ、反動、右翼とされていました。しかも、この文章は当時では右翼の代表雑誌のように言われた「諸君!」に掲載されたのです。
『あれは戦いでも銃撃戦でもない。戦場なら5分で終わり、全員が死体になっているだけである。今ならバズーカ砲、昔なら歩兵砲の3発で終わりであろう。1発は階下の階段付近に撃ち込んで2階のものが下りられないようにし、2発目は燃料のあるらしいところに撃ち込んで火災を起させ、3発目は階上に撃ち込む。砲兵が出る幕ではない』
まったく事実です。「兵士たち」もその擁護者たちも「唯銃主義」を唱え、革命戦争を起こす気なら、あんな安全な戦いなどすべきではないでしょう。あんなのは戦争ではないと山本少尉は言ったのです。
山本七平は1942(昭和17)年に青山学院高等商業部を繰り上げ卒業すると10月に近衛野砲兵聯隊補充隊に入営します。1921(大正10)年の生まれでした。翌年の1月に甲種幹部候補生に採用され、豊橋の予備士官学校に入校、10カ月の教育を受けます。豊橋は砲兵科予備将校の養成をしました。44年の5月末にはフィリッピンの第103師団砲兵隊に配属されます。そこで山本少尉は苛酷な実戦に参加しました。
赤軍や過激派学生への同情がなくなったのは3月7日のことでした。リンチで殺された兵士の遺骸が群馬県で発見されました。続いて県内でさらに11人の死体が見つかり、千葉県内で2人の死体、合計14人が亡くなっていたのです。「総括」という名の拷問を繰り返し、最後には殺してしまうという異常な集団であることが明らかになりました。
1972年にはさらに彼らによって陰鬱な事件が続きます。5月30日のことでした。イスラエルのテルアビブ・ロッド空港で「日本赤軍」の兵士3人がマシンガンで空港にいた旅行者たちを無差別に撃ち倒します。非武装の民間人、巡礼者のプエルトリコ人など26人が殺され、70人以上が負傷しました。
テロというのは卑怯なものです。大きな目的のためには犠牲はしかたがないと、よく左翼の人は言いましたが、自分の夢のために人を殺してよいのか。そういう疑問は誰もが持ちます。
なぜか現在でも「専守防衛のためには、誰かが殺されてからでなくては反撃してはいけない」という意見をもつ人がいます。正義の主張のためには少しの犠牲があっても仕方がないというのでしょう。興味深い事実です。
3人のうち2人は手榴弾で自爆し、1人はイスラエル軍に捕えられ正体が明らかになります。よど号のハイジャック犯の1人の弟でした。もっとも、この人の兄もどうやら北朝鮮当局によって処分されてしまったようです。

「100人斬り」と本多勝一

 本多さんは不思議な人でした。まず、正確な経歴が分からない。ウィキペディアを見ても彼の出身校にはいろんな説があるとしています。わたしは京都大学で文化人類学を学んだと信じていましたが、どうもはっきりしません。大新聞の記者でありながら、いまだにはっきりとした入社までの経歴が不明瞭というのは興味深い事実です。
 本多さんは鈴木明さんと論争を行ないます。次回は100人斬りと日本刀の話にします。
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和五年(2023年)2月1日配信)