陸軍工兵から施設科へ(33) 昭和初めの減俸事件

はじめに

 ウクライナの戦乱のおかげで、わが国の経済、そして私たちの暮らしにも変化が起きてきています。久しぶりの物価上昇、とりわけ食品、ガソリン・燃料の価格が上がってきました。専門家の話では、39年ぶりのインフレになるとか。
 毎年、物の値段が上がり財布が軽くなるというのは、私たちの世代(70代)の若い頃には当たり前でした。でも、その代わり賃上げが毎年あり、公務員だったわたしにはベースアップも必ずあって、明日はもっと暮らしが良くなると思えていました。
 高度成長の時代には、そんな楽観的な気分で過ごすことができました。それが変わったのは1980(昭和55)年のことでしょうか。この頃から物価が上がることは滅多に聞けなくなり、同時に給料もあまり上がらなくなりました。世間は「低成長」時代に入ったのです。だから、現在、60歳前後の皆さん、昭和30年代以降の生まれの方々は、あの「来年はもっと豊かになっていくだろう」という気分を、若いころに味わえなかったのだろうなと思います。
 今日のお話は昭和ヒトケタ期のことです。大正時代のバブル崩壊(1919年)から始まって関東大震災(1923年)の大被害、金融恐慌(1927年)、ニューヨーク市場の株式大暴落と世界恐慌(1929年)と日本経済はたいへんな思いをしていました。

官吏ばかりがいい目を見ている

 世間の不景気に合わせて官吏(かんり)の減俸問題が出てきました。苦しい財政の中では役人の人件費を抑えることが一番の特効薬です。しかも、世の中の人々からは必ず賛成の声があがります。今も昔も、「公務員は安定している」というのが世間の常識だからでしょう。
 1931(昭和6)年5月16日、新聞には総額約1000万円という大規模な官吏減俸案がスクープされました。前年1930年の一般会計は約15億6000万円です。軍事費は4億4000万円でしたから約28.4%、国民総生産が146億7000万円でしたから約3.02%にあたります。
 15億6000万円のうちの1000万円ですから、0.6%にもあたる大ナタをふるう案でした。驚いたのは対象になった官吏たちです。
 ごく無邪気に、官吏とはいまの公務員だねというまとめ方、一応は合っています。事実、各省庁の官吏は今の国家公務員にあたりますし、試験制度によるキャリアとノン・キャリアの区別なども似ています。
しかし、決定的な違いは、現在のような国民に奉仕する存在ではありません。あくまでも国家の主権者である天皇から選ばれた存在でした。国の公務を担任するのは、ほかに議会議員、政府の委員、嘱託員、雇員(こいん)、傭人(ようにん)など、陸海軍の兵などがありましたが、これらは官吏とはいわれません。
このほかに地方自治体の吏員(りいん)なども、今でいう地方公務員ですが、当時も国家の官吏とは区別されています。現在はほぼすべての人たちが一般職・特別職の、国家・地方公務員となっていますが、戦前社会の官吏とはひどく少ない人たちでした。
官吏には文官と武官があります。武官とは陸海軍の下士官以上をいいます。よくドラマや映画、小説などで「官姓名を名乗れ」などと兵士が言われていますが、正確には兵は官ではないので、「等級氏名を名乗れ」というのが正しいのです。もっとも、官尊民卑(官に権威を感じ、民間を卑しいとする)の気分が強かった社会でした。官でもないのに官のようなふりをする人も多かったので、兵士でも官吏気分だったのかも知れません。

高等官と判任官

 官吏には高等官と判任官の区別がありました。高等官は任命の形式で勅任官と奏任官に分けられます。勅任官はさらに親任官と、その他の勅任官になりました。親任官の代表は文官では内閣総理大臣、枢密院議長などです。武官では陸海軍の大将しかありません。
これが高等官の最高峰ですが、この下の勅任官と奏任官を9階級に分けて、高等官1等(文官では宮内次官、李王職長官など、武官では陸海軍中将と同相当官)、同2等(文官では内閣書記官長、帝国大学総長、検事正など、前同少将と相当官)という順に同9等までに分けました。ちなみに陸海軍少尉は高等官8等でした。
判任官は行政官庁で任命するものです。判任官は1等から4等までに分かれていました。武官、警察官は階級をもつので1等は准士官(陸軍では各兵特務曹長=准尉など、海軍では兵曹長など)、2等は陸軍曹長などと海軍1等兵曹など、3等は陸軍軍曹などと海軍2等兵曹など、4等は陸軍伍長などと海軍3等兵曹などとなり、警察官も警部、警部補は判任官でした。他の判任官は俸給の等級で官等に区分されていました。
この頃の官吏の俸給は1920(大正9)年に決められたものでした。昔の特徴は、ベースアップ(物価上昇に伴う調整)や毎年の定期昇給もありませんでした。ただし、賞与(ボーナス)はありました。

減俸案

 内閣総理大臣は1万2000円が1万円に、各省大臣は8000円から7000円に、枢密院議長7500円を6500円、各省次官6500円を5700円、局長5200円を4500円とするものでした。その下の奏任官1級は4500円を4000円、順に下がっていって12級1200円を1150円とするものでした。
 当時は月給100円がほぼ中流世帯といわれていました。だから年俸1800円以上、月給にして150円以上の者は減俸やむなしという世論もありました。奏任官では9級になると1800円、これが1650円になるということです。実に150円の減、月に直すと12円50銭が減る。物価も下がっていましたから1円を現在の4000円とみると、5万円の賃下げです。
 問題なのは元来俸給が少なかった判任官より下の人たちでした。1級の月俸160円が149円、2級135円を127円に、3級115円を109円、4級100円を95円、5級85円から55円までの官吏は4%から2%を引き下げるというのが計画されました。

減俸騒動

 青木槐三氏は書いています。月給66円の東京市電の運転手からの聞き取りです。家族は5歳と6歳の子供と奥さん。家賃は16円、食費が1カ月25円(薪炭、副食物を含む)、子供2人に10円、昼食が15銭で4円50銭、新聞雑誌1円、風呂2円、交際費3円、タバコが2円、電燈料金1円40銭でした。合計約65円、節約するには禁煙するしかないという話です。
 5月19日、いまの首都圏全域の車掌区、機関区・保線区などの現場の代表が集会を開いて減俸反対の意思表示をしました。鉄道本省のキャリアである若手法学士(大学卒業で文官高等試験合格者)や工学士(前同、技師など)が立ちあがります。各地方鉄道局、東京、名古屋、大阪、門司、仙台、札幌でも若手の学士たちがすぐに運動に参加しました。
 同日、鉄道省本庁舎は東京駅八重洲口にありましたが、その食堂に高等官35名(みな30代の若手官僚)、判任官45名が集まって鉄道員の減俸に絶対反対すると決議します。
 次回はこの騒動の結末と社会の様子をみてみましょう。
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)5月18日配信)