特別紹介 防衛省の秘蔵映像(9) ソ連の脅威─昭和51年映像─

昭和51年映像の紹介

はじめに

近代装備をもつ。そういった計画が第4次防衛力整備計画でした。今日は昭和51(1976)年の映像をみてみましょう。防衛大学校卒業式をみると、本科(研究科=修士課程と区別するため、4学年制を本科といいます)20期生の卒業、同24期生の入校の様子が見られます。
本科24期生の皆さんの多くの方は、今年は63歳になられるということです。いまもわたしとは、お付き合いがある方々で、映像には元富士学校長や同武器学校長の初々しい18歳のお顔が見えます。
 この昭和51(1976)年前後は、世界中でさまざまな事件があった頃でした。長く戦火が続いたベトナムからアメリカ軍が撤退しました。1973年(昭和48)年1月に「パリ和平協定」が結ばれます。南・北ベトナム政府、南ベトナム臨時革命政府とアメリカ国務長官の4者が話し合いました。アメリカ軍は協定通り3月29日に全軍が撤退します。しかし、南ベトナム政府は民族和解を進めることなく、なお戦闘は激しくなってゆきました。

石油ショックの影響

 1973年10月、エジプトとシリアの軍隊がイスラエルを急襲しました。これは中東戦争の4回目の戦いでした。イスラエル軍は過去3回の勝った戦争と異なって、緒戦は窮地に陥ります。占領していたゴラン高原の一部を奪回され、スエズ運河を越えたエ・シ連合軍にシナイ半島まで攻め込まれました。
しかし、エジプトはミサイル基地を撃破され、シナイ半島からも駆逐されます。結局、エジプトのサダト大統領はイスラエルの存在を認めるという現実政策への転換を示すことになりました。
 わが国への影響もありました。アラブ側が石油を武器にしたのです。アメリカ等、西側諸国(当然、わが国も含まれます)へ圧力をかけるために、サウジアラビアを中心にした石油輸出6カ国が原油の値上げを発表したのです。公示価格の21%引き上げ、続いて生産を5%削減する、さらにはイスラエルに協力的な国への出荷停止という措置を採ります。
 これを「石油(オイル)ショック」といいました。社会現象としては、トイレットペーパーが不足するといった噂に踊らされ、スーパーマーケットに主婦が殺到するといったことが起きました。中東の石油に頼りきるわが国経済の弱さと、国際政治に鈍感な一国平和主義が見直される機会にもなったようです。

1974(昭和49)年には

 74年4月、ポルトガルで若手将校達が無血クーデターに成功します。軍部による政権は民主化推進、植民地戦争の停止を宣言しました。5月には西ドイツでブラント首相の秘書が東ドイツから送り込まれたスパイだったことが分かります。ブラントはソ連や東側諸国との関係改善を図ってきましたが、その裏には相手側のスパイがいたのです。
 8月にはアメリカのニクソン大統領が、自らの選挙不正への関与を認め辞任します。ニクソン政権の支持率はマスコミ報道によって急落し、弾劾まで言われるようになりました。その結果です。後任はフォード大統領でした。
 
 9月には世界最古の王室といわれたエチオピアで革命軍事政権が生まれます。わが国では近衛軍将校になっていたアベベ選手(東京オリンピックのマラソン・金メダリスト)の安否が気づかわれました。

1975(昭和50)年という年

 
75年はとうとうベトナムが統一されました。このとき、南ベトナムからの難民が話題になります。レバノンではキリスト教徒と、回教徒の対立が激化しました。7000人の犠牲者を出すといった内戦になりました。
第1回サミット(主要先進国首脳会議)がパリで開かれたのもこの年11月です。集まったのは、アメリカ、フランス、イギリス、西ドイツ、イタリア、それにわが国という6カ国でした。アメリカはベトナム戦争で疲弊し、他の先進国も2年前のオイル・ショック以来、不況とインフレ時代に突入していたのです。
会議では、不況の解消、資本主義経済の擁護、民主主義的な社会の強化を目標にします。各国はこの合意の下に、景気、貿易、通貨、エネルギー、南北問題を討議しました。
東南アジア情勢について、重要なことを言い忘れていました。カンボジアです。4月にはカンボジア民族統一戦線のクメール・ルージュが首都プノンペンを制圧し、親米政権は崩壊します。今では、この裏には中国の存在が確かめられていますが、当時のわが国の報道では、美しい民族解放戦争という見方が主流でした。
またまた、アメリカの帝国主義の敗北といい、中国やソ連を賛美する評論家、学者、記者が大活躍しました。しかし、このポル・ポト率いるクメール・ルージュのしたことは、虐殺と強制労働と食物の収奪でした。急進的な共産主義政策は恐ろしい社会を生みました。

北方重視の動き・74式戦車

 この頃から自衛隊は「北の脅威」を反映する装備、編制を考えてゆきます。新装備が次々と生まれます。総合火力演習では、74式戦車、73式装甲車が走っています。74式戦車は今も使われているわが国独自の工夫がされた戦車です。
 48年つまり1974年に制式化されたので、西暦の年号の末尾をとって「74=ナナヨン」といいます。乗員は4名で、重量が約38トン、車体の幅も3.18メートルとなり、バランスの取れた姿です。砲は英国ビッカース社の西側陸軍標準装備の105ミリ砲、エンジンは空冷10気筒ディーゼル、720馬力を出しました。61式に比べると、ずいぶん動きが軽快になりました。
 最大の特長は、油気圧懸架装置の採用と、レーザー測遠儀、コンピューターを組み合わせた射撃統制装置です。前後左右の懸架装置の高さを変えることで、車体の姿勢を自由に調整できます。だから、最高姿勢では2.25メートルがプラス・マイナス20センチということになります。つまり最低姿勢は2.05メートルにしかならず、高い方では2.45メートルにできるのです。
 この油気圧懸架装置の機能は、前後の傾きと左右の傾きの2つに分けられます。つまり、前後の傾きは砲の俯仰角(ふぎょうかく・上下の動き)を増減できるし、左右の傾きは砲耳(ほうじ・砲塔に砲を取りつける軸)の傾斜を調節することができるのです。
 世界で初めて油気圧懸架方式を採用したのは、スウェーデンの無砲塔S型戦車ボフォースと言われます。ただ、この戦車は無砲塔なので砲の旋回・俯仰を車体全体で行います。だから油気圧方式が必須のものになるのですが、74式のように砲塔をもつ戦車では世界最初のものになりました。
 74式の優れたところは、地形地物を利用しやすいことでしょう。敵に発見されにくいところから、敵を撃てます。また砲耳軸が左右で傾斜しても、それを矯正して射弾のずれを解消できます。車高の上下各20センチを調節することで、不整地では車高を上げ、平坦なところでは車高を下げて暴露面積を減らすことができます。

73式装甲車

 戦場のタクシーといわれ、装甲人員輸送車(APC)が正式名称です。ソ連軍が当時使っていた装甲歩兵戦闘車BMPやアメリカ軍のM723などとは異なっています。積極的な攻撃装備としては、車内から操作できる12.7ミリ重機関銃と7.62ミリ機関銃があることです。
車体側面には射撃孔があって、乗員が個人火器で周囲を撃てます。60式に比べると、車体が全般に大きくなりました。60式の全長5メートルに対して73式は5.8メートル、幅も2.4メートルから2.8メートルに、車高は1.89メートルから2.2メートルになっています。重量も11.8トンから13.3トンと大きくなり、収容能力も10名から12名に増えました。何よりの特長は水上航行ができるということです。

ミグ25が函館空港に強行着陸

 9月16日、午後1時30分、函館市民は低空飛行するジェット機の轟音に驚かされました。管制官の通告も聞かずに滑走路に降りて来たのは、赤い星をつけたソ連空軍のミグ25戦闘機でした。もちろん、1時10分頃にはレーダーサイトからの警報を受けて千歳基地からF4ファントム戦闘機がスクランブル発進をしましたが、低空を飛ぶミグを発見できなかったのです。
飛行中の航空機から低空の目標を発見する力をルックダウン能力といいますが、地(水)表面からのレーダー波の反射を処理しきれませんでした。当時それが出来たのは、米海空軍が配備するF14トムキャットとF15イーグルだけだったのです。
パイロットは米国への亡命を望みました。今も語り伝えられのが、この時の法整備が穴だらけだったことです。空港へ降りたときから管轄は警察になりました。駆けつけた自衛官は機体を確保した警察官に追い返され、近くに寄ることもできませんでした。まさに北海道警察にとっては「想定外」の出来事です。外国の軍用機が領空侵犯なら航空自衛隊が対処する、しかし強行着陸されたらそれを捜査し、逮捕するのは警察の役割でした。
ドタバタ劇が起きました。政府も、警察庁も防衛庁も大混乱。そこへ機密が満載された機体の奪還にソ連軍がやってくるという予想もマスコミが流します。当然、自衛隊は戦闘を覚悟したといいます。詳しいことは現在では公刊された書籍に明らかにされています。
 映像にはF4の後継機検討のための調査団が、F14、15、16の3機種の模型とともに映り、出発する様子があります。また、F104戦闘機が北海道日高沖で戦技競技会に励む様子、石川県小松基地にF4戦闘機装備の第303飛行隊が第205飛行隊とともに配備されたことも見られます。

DDG(対空ミサイル護衛艦)「たちかぜ」竣工

 海上自衛隊の対空ミサイル護衛艦の2番艦、「たちかぜ」が三菱長崎造船所で竣工する映像があります。すでに1965(昭和40)年には対空ミサイル・ターターシステムを搭載した初の護衛艦「あまつかぜ(163)」が竣工していました。2番目の「たちかぜ(168)」は、同型艦「あさかぜ(169)」、「さわかぜ(170)」とあわせてターターシステムの改良型であるスタンダード対空ミサイルシステムを搭載しました。
 このスタンダード・ミサイルMR型の推進薬は固体燃料、セミ・アクティブ・レーダー・ホーミングでした。「たちかぜ」の排水量は3、850トン、蒸気タービン2軸で速力は32ノットを発揮しました。
 これまで護衛艦は多くが対潜水艦作戦を重視し、高い練度と有力な装備をもっていましたが、対空装備は不足していたといえるでしょう。それが対空ミサイル護衛艦をもつことで、個艦防御だけではなく周囲の護衛艦群も守るという目的を果たせました。

阪神震災に備えての「なにわ」演習

 阪神地区に大規模震災が起きたことを想定して、中部方面隊は「なにわ」演習を行っています。河に施設科部隊が舟橋を架け、海自の輸送艦が物資を揚陸していました。もともと京阪神地区は地震の被害が少なかったところでした。まさか実際に「阪神淡路大震災」が1995(平成7)年に起きるとは、どなたも予測をしていなかったのではありませんか。自衛隊は、いつも不時に備えています。

岩国に71航空隊

 戦前日本は飛行艇大国でした。海軍には97式大型飛行艇、そして世界最高水準の性能を誇った2式大型飛行艇がありました。その技術を引き継いだのが、対潜水艦哨戒飛行艇の新明和PS-1です。風速25メートル、波高3メートルといった荒天でも離着水ができて、それは新明和の高い技術「波消し装置」のおかげです。
 海上救難機に改装されたのが、US-1です。最大速度は295ノット(時速約550キロメートル)の快速は、多くの遭難者の救出に活躍しています。山口県岩国の基地に3機が配備され、うち1機は神奈川県厚木基地に派遣されているようです。
 今回の映像のおかげで10月に栗栖弘臣(くりす・ひろおみ)陸将が陸上幕僚長に就任されたことを改めて思い出しました。栗栖陸将は東京大学出身、学徒出身将校として大東亜戦争に参加され、自衛隊に入られた方でした。次回は、その「超法規的発言」についてふれることになります。
(あらき・はじめ)
(令和三年(2021年)3月31日配信)