特別紹介 防衛省の秘蔵映像(46) 「動的防衛力」の提唱 2009(平成21)年の映像紹介

2009(平成21)年の映像紹介
平成21年防衛省記録 – YouTube

はじめに

 22大綱、続いて25大綱と次々と新しい方向性が示されます。16大綱から6年が経ちました。政権も民主党が握り、この年(21年)には鳩山由紀夫氏が総理になりました。鳩山氏は、「トラスト・ミー(わたしを信じてくれ)!」という米大統領への迷言で有名です。菅直人氏は翌20年に総理大臣になります。
菅氏と自衛隊といえば、その8月、「改めて法律を調べてみたら、総理大臣は、自衛隊の最高指揮監督権を有すると規定されております」と、当時の統合幕僚会議議長たちに挨拶されたことを思い出します。20日付の朝日新聞に大きく報道されました。
これはもともと2日の衆議院予算委員会で自民党の石破茂政調会長から、「自衛隊の最高指揮官として制服組から話を聞いたか」と追及され、あわてて会談をセットしたときのことでした。菅氏は自衛隊法第7条に「内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有する」と定めていたことを知らなかったのです。
このとき、防衛大臣北沢俊美氏にも菅氏は「防衛大臣は自衛官ではないのですよ」と声をかけました。自衛官とは階級をもち、制服を着る義務がある諸外国では武官のことです。文民統制の上から、防衛大臣は文民でなくてはなりません。憲法第66条に「大臣は文民でなくてはならない」と規定されてもいます。
菅氏はその事実も、防衛に関する重要な制度も知らなかったことが分かる発言でした。この翌年には、彼は自衛隊の最高指揮官として「東日本大震災」に臨みます。自衛官に様々な命を懸けた任務を命じる立場になりました。
 鳩山氏はすでに米国との間の約束だった普天間基地移設問題で、「最低でも県外へ移設させる」などと現実無視の発言をしました。
 鳩山氏の妄言はまだあります。2011(平成23)年2月のことでした。すでに首相ではなく、一衆院議員だったのですが、辺野古への基地移転になったことをふり返ります。「国外、県外と摸索したが、結果として辺野古しか残らなかった。辺野古となったときの理屈付けに抑止力という言葉を使わせてもらった。それを方便と言われたら方便かもしれない」とインタビューに答えました。
 そんな中でも自衛隊はこうした文民統制の下に、さまざまな活動・任務を続けています。前回も書いたように、平成19(2007)年には国際活動が本来任務化とされ、中央即応集団が発足します。
平成21(2009)年の防衛白書によれば、自然災害が増え、国際緊急援助活動が増えてきた。これは軍事力の軍事作戦以外への運用などが起きたことを意味し、国際社会での軍事力の役割が多様化したことを表すとしています。
また、南シナ海での中国の活動が活発化してきました。イランではウランの濃縮実験が行なわれ、それらに対応する米軍の再編などの戦略の世界再構築などのグローバルなパワーバランスの変化などが起きています。それに加えて、北朝鮮の核と弾道ミサイルの開発などがありました。わが国周辺の軍事情勢の複雑化に対応する必要性が明らかになってきたのです。

「基盤的防衛力構想」から「動的防衛力」へ

 「基盤的防衛力構想」は07(平成7=1995)年で、それまでの防衛構想を踏襲する考え方として認められたものでした。それはわが国への軍事的脅威に直接に対抗するのではないということです。
周辺国家がどうあろうとも、わが国が「軍事大国」になることは決して致しません、その代わり私どもが軍事力の空白地帯になって周辺地域においての不安要因とならないようにします。そのためには独立国としての必要最小限の「基盤的な防衛力」は持たせていただきますという宣言です。
そうして決められたのが、陸上自衛隊でいえば、定員が18万人から16万人に減らすことでした。しかも常備隊員は14万5000人、新しい制度の即応予備自衛官が1万5000人ということです(合計で16万人)。これは部隊の規模にも関わります。地域配備をする部隊が12個師団、2個混成団の14単位が、8個師団と6個旅団になりました。もちろん、北海道の第7師団(ただ一つの機甲師団)は別です。戦車は全国で約900輌、火砲も約900門でした。
海上自衛隊は機動運用される護衛艦部隊は4個群、地方隊の護衛艦は3個隊が減る7個隊、掃海部隊は1個群が減りました。陸上哨戒機部隊も3個隊がなくなり、作戦用航空機も220機から170機に大幅減少。空自の航空警戒管制部隊が28個群から8個群、20個隊に改編され、空中警戒飛行隊が増1個増えました。作戦用航空機は430機から400機へと削減です。
これが「基盤的防衛力構想」の始まりでした。その後、前に説明した経緯で防衛力はとにかく削減という流れでした。映像には3自衛隊の取り組みがさまざま登場しますが、22(2010)年には「動的防衛力」という言葉が登場します。

「動的防衛力」とは

 22大綱は装備については、陸自では戦車と火砲をさらに400輌、400門に削減し、編成定数も15万4000人にします。海自は護衛艦が48隻、潜水艦は22隻に増え、空自は作戦用航空機が340機と削減されました。
 官房長官談話は次のような内容でした。(1)わが国に直接脅威が及ぶことを防止し、及んだ場合は排除し、被害を最小限にすること。(2)国際的な安全保障環境の改善、脅威が及ぶこと防止しするとあります。軍事技術水準をふまえた高度な技術力と情報能力に支えられる「動的防衛力」に舵を切るといったものです。
 たしかに映像を見ると、弾道ミサイル防衛についてはイージス艦による対空ミサイルSM-2、空自のペトリオット・ミサイルによる迎撃などが映ります。北沢防衛大臣の部隊視察、防衛大学校での訓示などがおさめられています。

海賊対処法

 当時、ソマリア沖アデン湾での海賊行為が話題になりました。世界では年間400件あまりの海賊行為があり、うち半数以上の217件がアデン湾での出来事でした。資源の多くを世界から、とりわけ燃料資源を中東からの海上輸送に頼るわが国です。「海賊対処法」が制定され、武器の使用も許されるようになりました。
 3月には護衛艦「まきなみ(DD112)」と「さざなみ(同113)」が呉を出港する様子が映ります。この両艦は「たかなみ」型に属し、満載排水量6300トン、127ミリ(5インチ砲)を備え、30ノットを出せて、ヘリコプターも搭載した当時の汎用護衛艦の最大タイプでした。
 2隻は商船や客船のグループ(8隻から12隻)の前後に位置し、900キロにも及ぶ護衛航海をします。また、これに協力するP3C哨戒機も派遣され、基地のジブチ空港には陸自の警備隊が常駐し、空自のC-130は人員物資の輸送に励みました。年末までに92回も護衛をし、P3Cも126回の飛行をしたそうです。
 面白い話題は、このときではありませんが、日頃熱心に「反自衛隊」、「海外派兵反対」を主張する団体が運営する旅客船が、旭日旗を揚げる自衛艦に護衛を平然と要求したという事件でした。なんだ、何でも話し合いで解決するはずだろう、こういうときだけ自衛隊かと話題になりました。

トピックス

 世田谷区三宿駐屯地にある自衛隊中央病院の新病棟完成がありました。自衛官やその家族ばかりではなく、一般の方も受診できると広報しています。コロナ禍の中で、この病院の恩恵が大きかったことを忘れてはなりません。
 護衛艦「ひゅうが」が就役しました。初めての全通飛行甲板をもつDDHでした。大きな飛行甲板では3機の対潜水艦ヘリコプターが同時に運用できるようになりました。また、女性自衛官区画が設けられ、約20人の女性乗組員が生まれます。3代目の砕氷艦「しらせ」も就役しました。
 空自のトピックスは、これまでの管制システム・バッジからジャッジに替わったことです。もちろん、性能向上が大きく、弾道ミサイル防衛にも貢献します。
 また現在の上皇陛下、当時の今上陛下の御在位20周年記念式典への自衛隊の参加が観られます。奉祝歌が人気グループ、「EXILE」だったことが記憶によみがえります。
さて、次回は25大綱についてまとめをして、いったんこの内容を休ませていただきます。
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和三年(2021年)12月22日配信)