陸軍工兵から施設科へ(64) 1960年代の世の中

「国民」か「われわれ」か

 またつまらない揚げ足取りをされました。岸田さんも、周囲も緊張感を欠いている、あるいは忙しすぎるのか。いずれであれ、当事者能力に疑いがかけられてしまいます。ただし、言っていることは正しいと信じます。防衛にカネを出すのは国民に決まっています。
自動車事故への任意保険も、毎月払う健康保険もいざ何か起きたときへの備えです。必要となることはないだろうから無駄なカネはつかわない、それも自由でしょう。ただですね、交通事故には「もらい事故」もあるし、自身の過失で起こすこともある。また、医療費だって、信念や決意でなんとかなるものではありません。
そんなことは多くの人が理解していることでしょう。でも、マスコミやそれに踊らされる人の中には「防衛費を増やすと戦争になる」とか、「アメリカの言いなりになって」とか、「防衛産業がもうかるから」などと、旧い、言い古された陰謀論をまだ語る人がいます。
もっともらしいのは「防衛国債は将来の世代への負担を増やす」などという、いかにも老人の心に訴えやすい主張です。今のような状況で、侵略され、国民が殺され、国土が焼かれたら将来世代も何もあったものではありません。
そうそう、立憲民主党の主張する「攻撃されてから反撃する」というのは、まず国民の誰かが撃たれてからやり返すという意味です。「座して死ね」ということを言っています。興味深いのは、そうした主義の人にそのあたりの真意を聞いてみます。すると、「いつミサイルが飛んでくるのです?」とこちらの質問に逆ネジを食わせる反応をすることです。いつ飛んで来るのかなんて相手次第でしょう。事故や病気だって、必ず予測できるなら苦労はありません。

復興の15年間

 わたしは旧い人間なので、十干十二支六十年を一運ということを教えられました。十干とは甲乙丙丁・・・という「きのえ、きのと、ひのえ、ひのと・・・」の10種類です。陰陽五行という考えでは、世の中の元素は「木火土金水」でできています。「きのえ」は「木の兄(え)」、「きのと」は「木の弟」という意味です。
それに「子丑寅・・・」とされる12種類の並び、10と12の最小公倍数は60。そこで60年で「還暦(かんれき)」と言います。甲子(きのえ・ね、あるいはかつし)から始まって癸亥(みずのえ・い、あるいはきがい)で年の呼称が一巡し、また甲子になるからです。
阪神タイガースの本拠地、「甲子園球場」は1924(大正13)年に完成しました。また、日本史でもなじみの「壬申(じんしん)の乱」も「みずのえ・さる」、西暦では672年のことでした。「戊辰戦争」も同じで、「つちのえ・たつ」の年でした。
 
 この60年は人の一生にもなぞらえられました。15年ごとに春夏秋冬をあてはめます。それに色をつければ、15歳までは少年期「青春」、16歳から30歳は青年期「朱夏」、31歳から45歳までが壮年期「白秋」、そうして晩年が老年期「玄冬(げんとう)」。「玄」は黒という意味です。この各色は方位の守護神にもあてはめられます。東は青龍、南は朱雀(すざく)、西は白虎(びゃっこ)、北は玄武(げんぶ)になりました。
 横道にそれましたが、敗戦から15年、1960(昭和35)年までは復興の年月といっていいでしょう。多くの日本人にとっては自己嫌悪の時代でした。「戦前は1等国だったのに、戦争に負けて3等国になった」と嘆く声が聞こえました。外国についての関心も薄く内向的だったと思います。
 61年から73(昭和48)年、その翌年くらいまでは高度経済成長期でした。この時代、まさに日本人は大きく変わったと思います。一つは大正時代から始まる「大衆化社会」の進展です。「大衆」とは、誰もがひとかどの意見をもつ社会をいいます。大正時代には新聞は発行部数を増やし、ラジオ放送も始まりました。
その裏付けは義務教育の6年間の徹底と、その後2年間の小学校高等科就学者の増加です。また、中等教育、中学校(5年間)や実業学校(3年から5年)の卒業生が増えたことでした。1930年代(昭和一ケタから大東亜戦争の直前)には、その大衆化もピークを迎え、都市のサラリーマンが増え、中・高等教育への進学者もうなぎ登りでした。
それに水をかけたのは戦争準備のための社会主義体制です。統制経済が、戦争遂行、国力養成には効率的だと考えた官僚たちによる自由競争を禁じた社会でした。あの戦時中の息苦しかった世の中こそ、企業の統制や食糧配給制度などの日本人が自ら選んだ不自由な社会主義体制だったのです。
戦争と敗戦後の混乱で「大衆社会化」への流れは中断されます。それが50年代(わが国の独立以降)になると、流れは再開され、むしろ加速化して戦前社会を再現するようになりました。

明日は今日より必ずよくなる

 明日は今日より必ずよくなるといった期待、いや信仰といっていいでしょう。一方でさまざまな公害をまき散らしながら、わが国は豊かになっていきました。教育への期待も高まり大学や高等学校への就学率もあがってゆきます。
 社会学的には、ある傾向が全体の35%を超えると「みんな」という意識が高まるそうです。戦前社会では大学は同世代の中で、わずか2.5%(40人に1人)しか進まないものでした。専門学校(中等学校を出てから3年ほど)の人を加えても4%ほどでした。それが敗戦後の教育改革で新制大学がたくさん生まれました。
たとえば、旧制大学として知られるのは帝国大学や単科大学、明治、早稲田、法政大学や関西の同志社や関西学院大学などは元からの大学です。大正時代の半ばに学制改革があって、多くの大学が生まれました。
いま各地にある地方国立大学は旧制高校や旧専門学校、同実業専門学校、師範学校などを前身としています。わたしの母校、横浜国立大学は経済専門学校、工業専門学校、師範学校、青年師範学校を元として1949(昭和24)年に生まれました。いまは東京海洋大学となった東京商船大学、東京水産大学などは高等商船学校と海務学院と第一水産講習所が前身です。
この年に「新制大学」として生まれた国立大学は59校にのぼります(旧制大学は含めず)。また公立新制大学も東京都立大学、岐阜県立医科大学、名古屋市立大学、京都府立大学など15校でした。当時の在学生は多くがそのまま大学生になりましたから、この翌年の大学進学率は男子で34.6%にも達します。
 実際に受験して大学生になったのは1955(昭和30)年には男子21%、女子15%
です。60年安保騒動の年は、男子20%、女子は14%とわずかに下がります。だから映画「あいつと私」が描く慶応の大学生は、かなりの希少性があったとは言っても、はるかかけ離れた人たちではないという感じでしょう。
1965(昭和40)年には男子が30%、女子は20%となりました。戦前には男子は100人中、4人(25人に1人)だけが大学、専門学校に進んだことに比べると、およそ3人に1人が大学生になったのです。ただし数字は短期大学(2年制)も含みます。明らかに学歴エリートではなくなっていました。
 高度成長の終わり頃、1975(昭和50)年には男子が34%、女子は35%となっています。いまの60代後半、70代の人はこんな進学率でした。またこれ以後、女性の進学率が男性をいつも超えるようになりました。まさに「みんな大学生」といった気分が溢れていた時代になったのです。
 歴史はなるべく多角的に見た方がいい。そんな風に思います。次週も続けます。
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)12月21日配信)