陸軍工兵から施設科へ(63) 安保闘争(1960年)の後のこと

いよいよGDP2%程度というNATO国並の軍事費の負担を行なうという路線が固まり始めました。とはいいながら、さまざまな観測気球が挙げられています。陸自の定員を2000人減らし、海空へその枠を回すとかいう話も出ました。何よりびっくりしたのは、航空自衛隊が航空宇宙自衛隊となるとか。
 財源はどうするのかとかいろいろです。そこでこんなにも情報が溢れかえっているなか、自分で、自分の意見をもつということがとても大切になってきました。今日も、わたしも体験した、あの国民的運動だったといわれる60年安保闘争のことをふり返ってみます。

石坂洋次郎は何を書いていたか

 「青い山脈」とか「若い人」という小説や映画をご存知でしょうか? わたしはテレビ少年でしたから、これらの映画とはみなテレビで出会いました。ただし映画館に行って観てはいません。わたしより年長の方々は映画館で楽しまれていたのでしょう。
これらのベストセラーを書いた人は1900(明治33)年に青森県弘前市に生まれた慶応義塾大学文学部を卒業した高等女学校の国語の先生です。亡くなったのは86(昭和61)年ですから、わたしが30代半ばまでお元気だったのでしょう。
 地方の古い因習や封建的な人間関係を否定して、戦後のデモクラシーを明るく描いた流行作家でした。若い頃の石原裕次郎さんも「日活」映画の中で石坂洋次郎原作の戦後民主主義を広報する作品によく出ていたのです。
 では、この安保闘争の頃、石坂氏はどんなものを書いていたのか。友人の中に教えてくれる人がいました。それは1960年9月から翌年3月まで「週刊読売」に連載されていた「あいつと私」です。時制を見れば分かるように、この小説は安保闘争が大きな花火のように打ちあがり、急にしぼんだ頃に多くの人に読まれたのです。さらには映画化されて61年9月には主演が石原裕次郎さん、そして相手役は芦川いづみさんでした。

デモを眺めて

 慶応大学の男女5人の学生がいました。アメリカ製のビュイックという乗用車に乗った5人は郊外の高級住宅地である自由が丘から、お濠端の東京会館に出かけようとしていました。友達の女子学生の毛結婚式に出るためです。
その慶応の女子学生は婚約者が海外赴任をすることになり、同行するために大学を中退し結婚する。その結婚式に参加する、当時としては中流階層のきらびやかな人たちでした。同年齢の大学進学率はようやく25%ほどになりましたが、自由が丘に家があり慶応大学に在籍しアメ車に乗る若者たちです。
映画の中でドライバーを務めていたのは石原裕次郎さんでした。車は赤坂の溜池交差点で国会に向かうデモ隊に前をさえぎられてしまいます。女子学生はデモをする同年代の男女を見て反射的に劣等感を感じました。政治的な目的のために団結して行動する、そういった人たちに比べて豊かな暮らしを送る自分たちはどうなのだろう。
ところがドライバーの学生は言うのです。なんて日本人の体格は貧弱なのだろう、力強さが全くない。それを聞いて女子学生は、痩せて、背が低く、眼鏡をかけた多くの学生がいたましくなりました。さらに女子学生のデモ隊がやってきます。これがまた男子と比べてもさらに貧弱な体型をしています。

しゃくにさわるから行く

 東京会館で華やかな披露宴は終わります。すると石原さんも芦川さんもデモに加わることにしました。「自分は政治オンチだけど議会の通し方が癪にさわるから行く。みんながみんなきちんとした認識で行っているわけじゃない」と石原さんは言うのです。
 裕次郎さんは、当時、育ちはいいけど事情を背負っていた若者をよく演じました。頭がいい、格好いい、ただし上っ面な正義感は振りまわさない・・・そんな役が得意でした。この映画でも、地方出身の真面目な同級生から「生きる理想は持っていないのか?」と問われます。すると彼は答えたのです。
 「ないよ、そんなもの。俺は毎日その日、その日の欲望に従って生きてゆく。社会主義者以外はみんなそうだよ。いや、社会主義者の中にだって、とっくに理想を見失っている連中が多いんじゃないか」
 「政府や官僚が愚鈍かも知れない、しかし、外国と比べれば十分ましなレベルにあるし、日本という国の枠組みはしっかりしている・・・」と裕次郎さんは語ります。
 DVDの映画で確認すると、芦川いずみさんのお母さんは言いました。デモに参加してから帰るという彼女に「女はそんなことに関わらなくていいのよ」。その後ろにいる高校生の妹は受話器に言います。「お姉さん、がんばれえ。私も行きたいわ」。それが吉永小百合さんでした。

挫折ムード

 ちっとも変わらなかった・・・熱心に運動した学生たちは「挫折」しました。のちの言葉で言えば「心が折れた」のでしょうか。いいや、わたしはちょっと年長の彼らを見て、そうは思いませんでした。ナショナリズムを発散したあとの虚脱感だったのではないかと思えます。あるいは大学生は憂国の資格を持っていると自負していたのが、異常な進学率の増加があって、自分たちがエリートではなくなったという失意もあったのではないでしょうか。
 次回は経済のことを思い出したいと考えています。
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)12月14日配信)