陸軍工兵から施設科へ(14) 旅順要塞の激闘(2)第1回総攻撃

ご挨拶

 小正月(15日)も過ぎて成人式も無事に済みました。とはいえ、今年の各地で行なわれた成人式は形式を変えたり、縮小や中止といったりしたことに追い込まれた自治体もあったようです。わたしの市でも、全国一の成人ということから会場を2つに分け、各会場4回に分けて式典を行なうといった前代未聞の形式になりました。
 それにしても、これほどの変化を誰が予想したでしょうか。さすがの新聞やテレビも、いつもの後出しジャンケンで得々と政府の失態?をいうことも控えているようです。
 ただ気になることがあります。わたしがよく知る佐藤正久参院議員(イラクのヒゲの隊長)は、不公平な入国管理に問題ありとしました。
経済を優先したからでしょうか、政府は特定の国々からの入国を許していたのです。彼ら彼女らはビジネスの必要があるということから、ほとんど無検査でわが国に入って来ていました。
 どうりで、東京の浅草や、横浜の赤レンガ地域で観光客がいる・・・という噂が流れるはずでした。こうしたことをなぜ、新聞やテレビは報道しなかったのでしょう。だから、メディアとしての信用を失っていくのです。ネットのニュースがすべて正しいとは言いません。中には悪質なデマや、煽動を意図したものもあるでしょう。
しかし、この問題は、優秀な記者を抱え、特権的な取材活動を許されている新聞やテレビはすでに知っていたのではないでしょうか。知っていたなら、一体、どこの国に配慮しているのでしょうか。テレビや新聞の報道の様子を見守っています。

第1回総攻撃前夜

 旅順口攻略は「独立作戦」とされた。この言葉は戦術についての言葉である。すでに外征軍をすべて指揮する「満洲軍」司令部は1904(明治37)年6月20日に編成されていた。よく知られるように、総司令官は大山巌大将、総参謀長には児玉源太郎大将(6月6日に親任)がついた。その他の幕僚もそうそうたるメンバーだった。すなわち東京の参謀本部がそのまま満洲に引っ越したようなものだった。
 満洲軍のねらうところは、ロシア軍主力を会戦(大規模な軍隊同士の野外決戦)で破る。そのためには遼陽に進むことになる。それを主攻撃方向とする。ふつう主攻撃には助攻撃があり、敵の注意や兵力の集中を妨げる働きをするが、旅順要塞攻略はそうした役目をもっていない。第3軍のみで、ひたすら要塞を落とすのだ。
 8月14日、大山巌総司令官の日記を素材にした児島襄氏の記述によると、「各軍司令官ニ対スル命令」があった(以下、多くを同氏著作の『日露戦争』による)。
 ○第3軍(乃木大将)は、8月18日より旅順要塞に対して、本攻撃の砲戦を開始するはずである。
 ○自分は第1軍(黒木為楨大将)をもって遼陽、鳳凰城街道上の敵を攻撃させ、第2軍(奥保鞏大将)、第4軍(野津道貫大将)をもって鞍山站付近の敵を攻撃させ、遼陽攻撃を準備しようと思う。
 第4軍と第2軍の前進は18日から始めさせ、第1軍も含めて攻撃開始は20日とする。また、第3軍の旅順口総攻撃も20日に予定していた。大山総司令官は、満洲軍全軍を8月20日に同時に進撃させて、遼陽と旅順口をあわせて攻略しようと考えていたのである。
 第3軍司令部は、参謀大庭二郎(おおば・じろう)歩兵中佐を主務者として攻撃計画を立てていた。大庭は1864(元治元)年、長州藩士の家に生まれる。1883(明治16)年に陸士に第8期生として入校した。92(明治25)年、陸軍大学校第8期を首席で卒業。日清戦争では兵站総監部副官を務めた。その後、ドイツに5年間にわたって留学する。当時は第3軍参謀副長だった。普仏戦争(1870~71年)を研究してきたので、要塞攻略には詳しいだろうと思われていたらしい。

時間的な背景

 旅順口を守る要塞の防備ラインは、およそ3つに分かれていた。第1線を「外周陣地」というが、西から北、東にかけて203高地、大頂子山、164高地、三里橋北方高地、水師営南方高地、龍眼北方高地、大孤山、小孤山となっている。
 これを突破してゆくと第2線、これを「主抵抗陣地」という。南西の老虎尾半島を含んで旅順口を半円形に取り巻く高地群になる。とりわけ旅順口北東の松樹山、二龍山、盤龍山、東鶏冠山、白銀山に重点が置かれていた。
 そうして第3線、「複廓陣地」というが、旅順旧市街の外側の縁になる。白玉山、教道溝西南高地、趙家溝南方高地、老母猪脚東方高地をつらねたラインである。
 もともと旅順の市街は、龍河をはさんで東を旧市街、西を新市街とするが、この防衛ラインをみると、旧市街の防衛を焦点としていることが分かる。
第3軍の攻撃計画に大きな影響があるのは「時間」である。海軍はもともと8月10日を要塞攻略の予定日と希望していた。また満洲軍としても秋の雨期前には旅順口を攻略し、雨期の後に遼陽で全兵力を集めて会戦をしたいと思っていたのである。この8月10日には、その日程もはるかに遅れていた。雨期(秋の始まり)も迫って来ている。
第3軍としては、「1回の総攻撃」で要塞を攻略したいと思っていた。このために、防御能力の実態が不明な要塞に対しての常道である「威力偵察」どころか「強襲」を行なうようになったと考えられる。威力偵察は、まず火砲で要塞の各陣地を叩いてから、歩兵が突撃する。その反撃を見て、見当をつけて次回の攻撃法を立てるのだ。これは当時の西欧列強の伝統的、常識的な要塞への攻撃法である。
7月29日、決定した攻撃計画には次の言葉が見られた。『刻下ノ情勢ト軍ノ任務上、多少ニテモ時日ヲ要スベキ他ノ攻撃法ハ、一切之ヲ避ケルベカラズ・・・要塞其ノモノノ強弱如何ヲ顧ミルノ遑(いとま)アラズ・・・』とある。とにかく、要塞にどのような防御能力があろうとやるしかないというのだった。
第1回の総攻撃を無策だったとか、司令部が無能だったとか、後出しジャンケンの論断がいまもされるが、実態はこの通りだった。

主攻正面を東北正面とする

 「二龍山、東鶏冠山両砲台間」を軍司令部は選んだ。東北正面とされる。当時も、そのコースが最も堅固だと認識されていた。では、他の方向ならどうか。東鶏冠山よりも南の東正面は海岸に近い。兵力が展開しにくい。松樹山より西に主攻を向ければ、攻囲態勢をとるためには長距離移動が必要になる。しかも地形が資材輸送に向かないので準備に時間がかかる。
 では、東北正面はどうか。建設を急いでいた大連から長嶺子の間の鉄道からの物資輸送距離も短い。さらにこの二龍山と東鶏冠山の間を突破すれば、一気に旧市街に突入できる。「堅牢だけれども、だから多大の損害を受けるというのは当然予想すべきことだ」、司令部はおそらく死傷者1万人で収まるだろうと考えた。
 次回はロシア側の築いた要塞や、防御について、当時の工兵隊の戦闘記録から見てみよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和三年(2021年)1月20日配信)