陸軍工兵から施設科へ(58)電車特急「こだま」の時代

Jアラートについて思う

 すごいですね!急に警報が鳴って「ただちに避難してください」、新幹線は停まるし、列車も動かないらしいです。でも・・・テレビで仙台の方が言っていました。「避難しろと言われても、どこへゆけばいいのか分かりませんから」。新潟県と山形県、宮城県に警報が出たそうです。
24時間、要員が働く航空自衛隊のレーダーサイトのおかげで不審な飛翔体はすぐに発見されます。それが、急に途中で消えたそうです。理由はいくつか考えられるとある先輩が言われます。
何らかの故障があって北朝鮮当局の指示で自爆した。次の可能性は、2段目はダミーで1段目の実験だけだった。最後にあったのは撃墜された。ざっとこれらが考えられるそうです。しかし、アラートは決して「オオカミ少年」ではありません。飛翔角度やコースを見て、新潟県や宮城県の上空に至るという可能性があったのです。
発令から落ちて来るまでに10分くらいの時間はあるようです。マスコミも政府も「落下」といいますが飛んでくるのは爆弾でしょう。ふつうに考えれば「着弾」です。それに爆発性の弾頭が付いていれば、恐ろしい結果を引き起こします。弾片や爆風、衝撃波による被害は地下に入ればかなり防げます。10分あれば仙台市内なら地下鉄の駅や、大きなビルの地下に入ることができるはずです。
まず、自治体も速く対応をして、どこが緊急避難場所であることを決めることです。すぐに地下に潜れる施設を指定し、広報すべきです。青森市、山形市や盛岡市などの県庁所在地、次いで人口が大きな都市では、地域の中心になるような地下設備のある建造物を避難所に指定したらどうでしょうか。
 市町村の防災関係者も努力されていることと思います。一歩進めて、そうした避難所作りを急ぐべきです。

電車特急「こだま」

 1958(昭和33)年11月に、初めての電車特急「こだま」がデビューしました。前にも書きましたが、ちょっと詳しく思い出してみます。濃いクリーム色に深紅のラインが入ったモダンな電車でした。国鉄の電車といえば、葡萄(ぶどう)色といわれた汚れの目立たない塗装ばかりです。しかも機関車が牽くのではなく電車でした。
 運転室が中2階にあって、クハ26(制御車)、モハ20(電動車・モーターのモ)、モハシ21(電動・食堂車)、サロ25(2等付随車・モーターなし)が2輌、モハシ21(前同)、モハ20(前同)、クハ26(前同)という8輌編成でした。片仮名のイロハはイが1等、ロが2等、ハが3等車を表します。2等は今ではグリーン車となりました。
 3等車(いまの普通車)の定員は328人、2等同じく104人、合わせて432人が定員でした。窓はすべて2重窓で開きません。冷暖房完備といいクーラーが室内を冷やしました。電話もかけることができ、東京-大阪間を6時間30分で結びます。
 同じころに、東京-博多間を特急「あさかぜ」が17時間25分で結びました。「さちかぜ」、「さくら」という特急も走っています。そこへ「こだま」です。新しい新幹線はおそらく世間の喝采をあびるだろうとも期待されました。
 待望の起工式は1959(昭和34)年4月20日午前10時から、東海道線来宮(きのみや)駅の新丹那トンネルの入り口で行なわれます。実は、すでに前に書いた戦前の弾丸列車計画によって3分の1ほどは掘られていました。
 翌年1月には中間駅も発表されます。名古屋と米原の間に岐阜羽島駅が予定されました。ずいぶん話題になったものです。岐阜や大垣も候補に挙がりましたが「新幹線急行」、つまり各駅停車は4時間で走る計画でしたが、その停車駅の1つに当時は人口も少ない岐阜羽島とはと驚かれたのです。東京駅はすでに改良の余地があったので問題はありません。大阪駅は北方4キロの地点に高架で新駅が建設されます。
用地買収も細かい問題はありながらも進んで行きました。

ずれている人の時代

 寄り道をさせてください。新幹線が1964(昭和39)年10月の開業を目指して建設の槌音が響かせていた時代。ふり返ると楽しいので、思い出を語らせていただきます。
 映画の話題です。1963(昭和38)年に『拝啓天皇陛下様』という作品が出ました。主役は渥美清さんと長門裕之さんでした。渥美清というと多くの人が「フーテンの寅さん」を思い出すことでしょう。人情にあつくて、古風で、変化する時代にうまく生きてはいけない流れ者の香具師(やし)を演じる渥美清さん。しかし、その人気は、実のところ第2次ブームです。「寅さん」の映画は昭和40年代からでした。
 この映画『拝啓天皇陛下様』で軍隊の優等生役を演じたのは2枚目俳優の長門裕之さんでした。伍長勤務上等兵になり、日支事変(1937年)の勃発で召集されて伍長になります。渥美清さんは字もろくに読み書きできない最下層の万年1等卒でした。この2人が昭和戦前期の平和な時代の岡山歩兵第10聯隊に入営します。
 原作は、映画でも山田2等卒から「むねさん」と呼ばれる棟田博さんが書かれた小説でした。棟田さんは実際に中国で戦った予備歩兵伍長でしたが、負傷して復員後に発表した『分隊長の手記』で一躍流行作家になった人です。1908(明治41)年の生まれで、1929(昭和4)年1月10日に現役兵として入営します。
 岡山県津山市の旅館の息子で中学を出て上京し、早稲田大学に進みました。それなら当時の幹部候補生の有資格者ですからそれになればよかったのに。おそらく家の経済状況が関係あるのでしょう。1927(昭和2)年の兵役法では、まだ幹部候補生になると経費の自弁制度がありました。そのためあえて一般の兵隊暮らしをしたのでしょう。史実では聯隊長は有名な小畑敏四郎歩兵大佐です。
 わたしがこの映画から学んだのは兵営が学校だったことでした。文字を学び、読み書きができるようになれと渥美清が演じる無学な前科者(山田正助)に諭すのは中隊長です。加藤嘉(かとう・よし)という上手な俳優が大正軍縮以来、進級がひどく遅れた大尉を演じます。2年兵になった山田に中隊長は教師を選びます。その初年兵が地方(一般世間)では小学校で代用教員をやっていた藤山寛美さんでした。
 
 中隊長は、山田が除隊する時には就職先の世話をし、正装の羽織はかまから下駄まで揃えます。しかし、世間の風は無学で粗暴であった山田には厳しいものでした。社会の下積みであったことは変わらず、召集されても万年1等卒だったのです。まさに軍隊は社会の縮図であり、戦前社会の一端を教えてくれた映画でした。

渥美清の真骨頂

 軍隊といえばイヤなところというのが昭和30年代では常識でした。もう戦後ではないと高らかに政府が白書で公言したのが昭和31年です。街には復興気分があふれ、映画館がどこの町にもありました。
 前科者で天涯孤独な山田正助(やましょう)と入営前に妻がいた桂小金治さんがいました。これにインテリ文学青年のムネさんこと長門裕之さん。意地悪な2年兵の1等卒は西村晃さん(実体験では元海軍予備少尉)が好演。
 やましょうは軍隊を出たくありません。訓練は彼の体力からすれば何のこともありません。営倉入りもハクが付いて無法者にとっては我がままのし放題です。除隊されないように天皇に手紙を書こうとします。当時は不敬罪です。ムネさんが止める。題名の由来です。
 物語は戦後も続きます。戦争協力者という烙印を押されて地方で暮らすムネさんのところに山田が帰ってきました。ムネさんが好きだったのです。ところが、今はやってはいけないことを山田はやってのけます。喧嘩別れをしますが、東京の千住で工事夫をしていた山田はもうすぐ幸せを手に入れようとしていました。その相手が中村メイ子さんでした。
 山田は酔って道を歩き、トラックに轢かれてしまいます。無知で、粗暴な男でした。そうした「ずれていた」男の美しさとこわさを渥美清は見事に演じていました。新幹線が走りだすちょっと前の時代とは、「世の中に遅れていた人」が社会に目立っていた時代でした。
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)11月9日配信)