陸軍工兵から施設科へ(59)新幹線建設の頃

ご挨拶

 コロナに罹りました。まず、家内が発熱、いつもお世話になる医院で陽性が確認されました。わたしは濃厚接触者なので土曜まで経過観察。ところが次の日にはわたしも発熱。珍しく身体のだるさを自覚し、やはり陽性確認。薬を服用したところ、たちまち解熱して今週の水曜日までの自宅生活となりました。
 おかげさまで、かえってゆっくりと休むことができました。ところが、ほんとうにゆっくりかというと、そうでもありません。電話が鳴るのです。高齢者であるものですから県から「自動会話」の連絡がやってきます。
安否確認のようですが、質問に「はい・いいえ」で答えるようになっています。毎日、必ずかかってきて、大声で答えるのですが毎回「あなたの声が認識できません。これで通信を終えて、また電話します」という繰り返しです。
なんの意味があるのか分からない某社が請け負っているとかいうシステム。それに対して、保健所の方による電話の確認。心配りに溢れ、体温と状況を伝えると、「それはよろしかったですね~」と優しく答えてくださいます。つくづく人は人との対話で心が和むものだと思いました。

建設が進む

 新幹線を建設して東海道線の輸送力を倍加する。特急、急行の利用客の人々に新幹線を使ってもらう、そうして在来線に通勤列車を増やして通勤ラッシュを緩和したい、そうした願いがありました。また、特急や急行を減らすので、その空いた線路に貨物列車を走らせて輸送力も増やそうという計画でした。
 当初はいろいろな反対意見がありましたが、結果的には開通60周年を迎えようとする現在、おおよそ国鉄の計画は間違っていなかったと思います。東海道線の輸送力はパンク寸前でした。1日に片道150回が線路容量の上限だったこと、運転間隔が4分から5分になっていたことなど青木氏の著作で初めて知りました。

土地の買収

 鉄道の新線建設には、まず用地の買収が前提です。たいへんだったのは戦前の弾丸列車計画で買収済みの箇所ではなく、初めて交渉にあたるところでした。開業のゴールラインが1964(昭和39)年10月なので急ぐ必要がありました。
 手順があります。いきなり買いにゆくというわけには国鉄にはできません。まず、新幹線の意義について広報し、おおよそのコースを、どのあたりに駅をつくるかを公表します。そうしなければ予算が取れません。
 地形測量のために航空機から写真を撮ります。5万分の1の地図でルートを決めました。すると起きたことは、賛成、反対の意見です。
 なんとかルートが決まると、それから買収ということになります。コースの中心測量を行なって地元と協議します。道路のこと、迂回させるか橋を架けるか、排水溝の新設やつけ替えなどの調整、こうしたことをしてからやっと幅が決まり、用地には試験杭を打って、ようやく地元と交渉に入れるようになります。
 こうしたことがあると、明治の昔から地元とのトラブルでつきものが「ゴネ得」などといわれる行為でした。売る側の人にとっては当然のことでしょうが、なかには先祖伝来の土地もあり、少しでも値を上げたいというのは人情です。
 大正の昔、いまは航空自衛隊の基地になっている所沢の飛行場を買収するときには、経理官や航空将校たちは用地買収の下調べと気づかれないように私服で視察に行きました。明治の頃には、いまも使われる中央線の路線買収に前には、噂が立っただけで予定地の樹木が一晩のうちに増えたとか。
 こうしたことがないように、地主さんとは個人折衝はやらない、村とか市とかの被買収者の団体のみを相手にするとしました。その団体には当事者ではなく、公正な第3者を入れて協議会、対策委員会をつくったのです。

交渉は社会の縮図

 昔のように「お上のひと声」で決まる時代ではないとは当時の人の語るところです。神奈川県小田原の近くで問題になったのは、果樹園や農園の木でした。みかんの木は1本で10万円とか、カキやクリ、ナンテンなどがそれぞれ数万円と主張もされました。
 また市街地では、不法占拠した土地に家を建てて、その家を人に貸しました。借りた人はまた家の一部を間借り人として貸すといったことをします。こんな時は、地主、不法建築者、間借り人のそれぞれに補償の交渉をすることになりました。商店などは毎月の売上額の申告を受けますが、うのみにはできません。いろいろと調べる手間がありました。
 苦労したのは墓地や神社、寺院です。子孫の思いや、さまざまな思惑があります。古墳などの文化遺産もあれば大騒ぎになりました。
 用地の買収がいちばん難しい。用地さえ取得すれば、工事は簡単なものだという言葉が残されています。
 さまざまな話がいまも伝わりますが、まさに当時の社会の縮図だった気がします。

昭和が明るかった時代

 昭和戦前期(昭和5年まで)が不況と混乱の時代なら、昭和20年の敗戦戦までは無我夢中の時代でしょう、戦後は歯を食いしばった再建の時代です。
 再建は確かに実感できました。いま若い人たちは映画、『三丁目の夕日』などで、東京タワー(昭和33年3月完成)の建設、その暮らしなどを見ることができます。わたしの小学校時代はまさに新幹線の建設中であり、中学校に入った年にシンカンセンは走りだしました。
 こんな時代に、またまた映画の話です。吉永小百合さんという大女優がおられます。わたしよりもだいぶ年上ですが、「キューポラのある町」という映画に17歳で出演されました。1962(昭和37)年のことでした。キューポラというのは埼玉県川口市にある鋳物工場の設備です。彼女はそこで働く貧しい職工(いまはもう死語です)の娘さんで、就職か進学かを悩みながら、最後には働きながら定時制高校に進学する道を選びます。
 この時代に詳しい方なら、当時、「地上の楽園」だった北朝鮮への帰国事業が背景にあるのだろうと気づくことでしょう。マスコミも芸術界もみな、北朝鮮は発展を続け、医療費も教育費も無料、在日の方々は帰国し素晴らしい暮らしをしているというプロパガンダを行なっていました。視察という名の大名旅行をした文学者や芸術家はみな北朝鮮や総連の肩をもちました。
 原作は早船ちよさんという1914年生まれの社会派の童話作家の作品です。これを当時の日活の監督である今村昌平さんが脚本化し、浦山桐郎監督が製作します。貧しい暮らしの中でも希望を失わない頭の良い、素直な少女を吉永さんは演じ、友達の北朝鮮への帰国事業などを背景に「貧困」の問題に立ち向かいました。
 その後、彼女は当時の日活を代表する女優になっていきます。構造的な社会問題と、それを支えた「ずれていた人々の存在」、映画は見事に描き出しますね。そうして、ずれていた人々への優しいまなざしが渥美清さんの人気の元になったと思います。では、吉永さんの立ち位置はどうだったのか。よろしければ次回もふれてみます。
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)11月16日配信)